東チモールが迫られるぎりぎりの選択

99年2月15日  田中 宇


 東チモールは、インドネシアの東部にあるチモール島の東半分を占める地域だ。インドネシアが1945年に独立する前、領土のほとんどはオランダ領の植民地だったが、東チモールだけはポルトガルの植民地であった。

 16世紀にこの海域に入ってきたポルトガルは、この地域で採れる香辛料をヨーロッパまで運ぶ船の寄港地などとしてチモール島の港を活用していたが、その後入ってきたオランダと覇権を争うようになり、チモール島の東半分はポルトガル領、西半分はオランダ領になった。オランダ領は独立してインドネシアとなったが、ポルトガル領は植民地として残っていた。

 だが、1974年にポルトガルで社会主義者の軍人らによってクーデターが起き、社会主義政権が誕生する。その後、ポルトガル新政権は、自国の主な植民地を独立させると発表した。これにより、アフリカのモザンビークとアンゴラ、そして東チモールが独立国となる方向性が定められた。

 東チモールで当時、最も大きな勢力を持っていたのは、社会主義傾向の強い「フレテリン」(東ティモール独立革命戦線)という政党だった。東チモールには、フレテリン主導の社会主義政権ができる可能性が強まった。

 これに強い危機感を抱いたのが、お隣インドネシアのスハルト大統領だった。スハルト氏は1965年のクーデターで、社会主義傾向が強いスカルノ政権を倒し、反共政権を作った。国内に親中国派の共産主義者がたくさんいるとして、多くの中国系住民を弾圧した。そんなスハルト政権にとって、すぐとなりに社会主義の東チモールが建国されることは、嫌悪すべきことであった。

 東チモールには、フレテリンに対抗する勢力がいくつかあったが、いずれも人数の少ない弱いものだった。インドネシアは、その中のいくつかに働きかけ、大量の資金と武器を秘密裏に供給し、親インドネシア勢力として育てて行った。

 そして、彼らとフレテリンとの間の武力衝突が広がるように仕向けた結果、東チモールは内戦状態に陥った。1978年、インドネシア軍の子飼いの東チモール人勢力からインドネシアに対して、混乱を収拾するために軍を派遣してほしい、との要請を出させ、それに応じるかたちでインドネシア軍が東チモールに進撃した。その翌年、インドネシアの議会(国民評議会)は、東チモールをインドネシアに併合する決定を下した。

●社会主義化を恐れ、侵攻を容認した国際社会

 インドネシアの東チモール侵攻に対する国際社会の反応は、複雑だった。ポルトガルを中心とするヨーロッパ諸国はインドネシアを避難し、国連も現在に至るまで、インドネシアの東チモール併合を承認していない。

 だがアメリカや、近隣国であるオーストラリアは、インドネシア軍の侵攻を事前に知りながら黙認した。当時は冷戦の最中で、東チモールが社会主義国として独立したら、ソ連の軍艦が停泊し、オーストラリアを標的とするミサイル基地が作られるのではないか、と恐れたのである。

 独立できると思っていた東チモールの人々の多くは、当然ながらインドネシアへの併合に反対し、若者は山にこもってゲリラ戦を続けた。フレテリンのリーダー、シャナナ・グスマオ司令官も山に入り、チモール人の希望の星となった。(抗日戦争時代の北朝鮮の金日成将軍のような存在だった)

 インドネシア軍の攻撃は熾烈だった。フレテリンの支援者がいると思われた村は容赦なく焼かれ、村人たちは殺されたり、難民としての生活を強いられた。こうした攻撃と、難民たちを襲った伝染病などで、東チモールの人口の3分の1にあたる20万人が死んだ。

 1975年以降に亡くなった東チモール人100人あたり、「自然死」だったのは5人しかいないとされている。残りは、殺されたり、餓死したり、難民となった後に病気で死んだのだった。

 インドネシアは東チモールに対して、硬軟取り混ぜた戦略をとった。反インドネシアの人々を弾圧する一方で、島内の道路や橋、病院や学校などを公共事業によって整備して行った。インドネシアに楯突かなければ、良い暮らしをさせてあげますよ、ということだった。

 学校にはジャワ島などからインドネシア人の教師が赴任してきて、インドネシア語で授業を行った。東チモールの人々はもともとテトゥン語を母語とし、少し学のある人はポルトガル語も話す、という状態だった。それをインドネシア語第一にするのが、教育の目標のひとつだった。

 またインドネシアはここ30年間ほど、人口が密集しているジャワ島などから、人口密度が低い島々に国内移住することを奨励し、人口の均一化と辺境の密林や荒地の開拓を進める政策をとっていた。東チモールはその対象地のひとつとなり、多くの人々が移住してきた。

 彼らのほとんどは善人だろうが、東チモールの独立には反対で、フレテリンをテロリストとして恐れ、敵視した。また、彼らの存在そのものが、東チモールのインドネシア化を進めることになった。そんな中で、山の中のフレテリンのゲリラ部隊はしだいに劣勢となり、1993年にはグスマオ司令官も捕らえられ、ジャカルタの監獄に入れられた。

●東チモールへのこだわりが少ないハビビ大統領

 1980年代後半からは、インドネシアの高度経済成長が始まり、日本や欧米の企業が相次いでインドネシアに投資するようになった。インドネシアなどの経済成長に影響され、それまで欧米世界の一員であることを国是としてきたオーストラリアは、国としての考え方を「アジアの一員である」という方向に大きく転換した。その流れの中で、オーストラリアは1985年、インドネシアの東チモール併合を承認するに至った。

 冷戦終結の前後から、こうした経済重視の傾向が外交の世界に広がる一方で、ヨーロッパからは「人権問題」を外交の世界に取り込もうとする動きが強まった。国際的に発言力を強めつつあったアジア諸国に対して、人権問題を振りかざすことによって、「旧勢力」である欧米が対抗しようとした、という構図だ。

 そしてその流れの中で、東チモール問題も国際的にクローズアップされていった。そして1996年には、東チモールの民族自決を訴えてきた東チモール人神父のカルロス・ベロ司教ら2人にノーベル平和賞が与えられた。これは、チベットのダライラマや、ビルマ(ミャンマー)のアウンサン・スーチー女史がノーベル賞を与えられたのと同じく、欧米の「旧勢力」から「新勢力」であるアジアの為政者へのカウンターパンチであると筆者はみている。

 冷戦後の国際社会におけるインドネシアの地位は、「経済成長による力の増大」と、「東チモール問題への批難」というバランスの中で推移したが、それが崩れたのが1997年のアジア金融危機だった。昨年5月にスハルト大統領が失脚し、暴動によって流通部門を支えていた中国系住民が攻撃されたことなどにより、インドネシア経済は機能不全に陥った。

 スハルト氏に代わって大統領になったハビビ氏は、スハルト氏に比べ、東チモールに対するこだわりが少なかった。元軍人で、自らの命令で東チモール侵攻を行ったスハルト氏にしてみれば、国際社会から「やっぱり東チモールはインドネシアが併合して良かった」と思われることが、侵攻以来の悲願だった。

 ゲリラをたたき潰し終えたら産業インフラを整えるとともに、州都ディリに立派な空港を作ってオーストラリアや日本から観光客を呼び込むというのが、スハルト前大統領が描いていた東チモールの将来像だった。

 だがハビビ大統領は軍とは関係ない人だし、スハルト氏の歴史的悲願を継承する義理もない。しかもハビビ氏は、政治のイスラム化を嫌ったスハルト氏とは対照的に、政治の中にイスラム教を持ち込もうとする傾向が強い。ハビビ氏の側近には、同氏がトップを務めていたイスラム教組織から入ってきた人も多い。

 そんなハビビ政権からみれば、ポルトガルの植民地時代からの伝統でカトリック教徒が多い東チモールは、国の資金をつぎ込むに値しない地域に見えても不思議はなかった。

 しかも昨年5月の暴動以来、インドネシアでは、反政府的な言動が一気に許されるようになった。東チモールでは昨年11月、2500人の若者がディリの州政府庁舎になだれ込んで占拠するなど、手のつけられない状態になりつつあった。

●急に「独立せよ」と言われて戸惑う東チモール

 昨年12月には、オーストラリアが1985年以来の態度を改め、「やっぱり東チモールは独立した方が良い」と言い始めた。85年に東チモール併合を認めた時には、インドネシア経済に将来を感じたが、金融危機以降、インドネシアには魅力を感じなくなったので、態度を180度変えて、またヨーロッパ諸国にすり寄ります、というわけだった。オーストラリア政府は「人権重視」だと胸を張るが、実のところ、金儲けのための政策変更であった。

 オーストラリアの豹変に、ハビビ大統領はショックを受けたようで、それ以降、政界の有力者たちに対し、東チモールをインドネシアからの切り離して独立させた方がいいのではないか、と相談し始めた。そして1月27日、ハビビ大統領は、東チモールがインドネシアから独立するという選択肢もある、と発表した。

 この発表の背景には、国連の仲介で1983年からインドネシアとポルトガルが続けてきた交渉があった。交渉でポルトガル側は、インドネシア軍が東チモールから撤退し、その後東チモール人に自治を許し、5-10年たってインドネシアが東チモール社会に残した負の遺産がなくなったら、インドネシアから独立するかどうかを決める住民投票を行う、というシナリオを主張した。

 スハルト前大統領は、このシナリオをほとんど受け入れなかったが、ハビビ政権になってから、東チモールに自治権を与えるという部分だけ受け入れた。東チモール人に行政権を与え、特別自治区にしても良い、と言い出したのである。

 ただ、インドネシアからの独立は認めず、住民投票も許さなかった。住民投票をしたら、独立支持が過半数となると予測されるからだった。ポルトガルに亡命している東チモール人の代表たちは、このインドネシアの対応に満足せず、したがってポルトガル側は納得しなかった。

 1月27日のハビビ大統領の方針転換は、インドネシアが提案している特別自治区構想を東チモール人側が拒否し続けた場合、インドネシア議会の決定を経て、東チモールの併合状態を解消し、インドネシア軍も撤退する代わりに、公共事業などの資金注入も止め、東チモールには独立してもらう、というものだった。

 「独立しても良い」と言えば聞こえは良いが、実のところは「言うことを聞かなかったら見捨ててやる」という宣言だった。あまくでも住民投票は認めず、永遠に「特別自治区」としてインドネシア領内にとどまるか、さもなくば来年までに独立せよ、という要求だった。

 世界の多くの国では、「辺境の開拓地」は政府が発注する公共事業が最大の産業であり、この状態は東チモールでも同じだ。だから、それまで独立を求めていたにもかかわらず、急に「独立せよ」と言われると、その後の地域運営が成り立たなくなる可能性が強い。日本国内の事情に例えると、仮定の話だが、沖縄に対して日本政府が「米軍基地を置かせてくれないのなら、もう公共事業はあげない。独立してしまえ」と言い出したようなもの、と言えるかもしれない。

 東チモールには現在、特産物としてコーヒー豆があるものの、その他には産業らしいものがない。急に独立してインドネシアからの資金流入がなくなると、海外からの援助に頼るしかなくなる。その先に見えているのは、国際的な債務が膨らんで経済が行き詰まった東チモールの姿である。

●「独立容認」の裏で渦巻く陰謀

 ハビビ政権は1月27日の発表をした後、東チモールでカリスマ性が高いシャナナ・グスマオ司令官をジャカルタの監獄から出し、監獄近くの家屋に監視つきで軟禁状態にするという待遇改善を行った。これによって、グスマオ氏が、東チモールの他の有力者やポルトガル、アメリカ、国連などの外交官とも会えて、事態の調整役として振舞えるようにした。グスマオ氏の言うことなら、東チモールの人々も聞くだろう、と考えたインドネシア政府の戦略だった。

 グスマオ氏やその他の東チモールの有力者、ポルトガル政府の関係者は、急いで独立すると大変なことになる、と予測している。というのは、東チモールではこのところ、独立を求める人々と、インドネシアへの残留を求める人々との憎しみが強まり、あちこちで衝突が起き始めているからだ。このまま独立になだれ込めば、手のつけられない内戦状態になってしまうかもしれない。

 しかもインドネシア軍は、今年に入って、東チモールのあちこちの村で民兵団を組織し、武器を渡してトレーニングし、独立派と戦える勢力を増やしている。東チモールでは、公共事業の多くは軍によるものなので、金儲けをしたいと思う人は軍と仲良くする必要があった。そのため東チモール人の中にも、親インドネシアの立場を取る人がいる。

 そうした人々の一部は、以前から軍の息がかかっていて、夜中に独立派の人々を暗殺したりして「ニンジャ」と呼ばれ、恐れられていた。軍は、こうした勢力を拡大させ、自分たちが撤退した後も、遠隔操作によって独立派を抑えられるよう、考えているようだ。

 たとえ東チモールが独立しても、内戦状態が続くのなら、やがて「再びインドネシア軍の介入が必要だ」という容認論が内外で強まり、結局はインドネシア軍が東チモールに戻る、というシナリオもあり得る。1978年の侵攻時の繰り返しである。ハビビ氏の「独立容認」の発表の裏には、こうした陰謀があるのではないか、とみられている。

 グスマオ氏らは、こうしたインドネシア軍の動きを批難しているが、軍は「そんな事実はない」と突っぱねている。内戦になる可能性が強い独立か、インドネシアへの再服従ともいえる自治を受け入れるか。東チモールは今、ぎりぎりの選択を迫られているといえる。

 






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