陰謀終わらぬインドネシア・復興の妨げは大統領自身98年8月4日 田中 宇 | |
最近、インドネシアの首都ジャカルタに、約100店のパソコンショップを集めた「ニューコンピューターシティ」がオープンした。 インドネシアでパソコン関連製品を売買してきたのは、主に中国系の人々だが、彼らはスハルト大統領辞任のきっかけとなった5月の暴動の最大の被害者だった。チャイナタウンなど市内各所にあった中国系の店や事務所などの多くが焼き討ちされ、チャイナタウンにあった「コンピューターシティ」も焼かれた。それから2ヶ月、店は元の場所から少し離れたところで再び営業を始めたのだった。 この店の再開は、暴動や通貨ルピアの低迷によって破綻しているインドネシア経済にとって、明るいニュースとなった。インドネシアでは、流通業の大部分を中国系の人々が握っており、パソコン関連製品についても同様だ。暴動によって中国系の商業活動が停止して以来、インドネシア各地のパソコンユーザーたちは、部品などの調達ができなくなり、困っていた。その意味で店の再開は歓迎されるものだった。 また営業再開は、ハビビ大統領も喜んでいると伝えられるなど、インドネシア経済の中心を握る中国系の人々が、暴動の打撃から立ち直り、プリブミ(インドネシアの人口のほとんどを占めるマレー系の人々)と再び協力して新しいインドネシアを作り始めたことの象徴として扱われている。 ●チャイナタウンはまた襲撃されるかも だが、中国系の人々の不安は、解消されたわけではない。店の営業再開を世界に報じたウォールストリートジャーナル(8月3日付)によると、この店のオーナーたちと面会したジャカルタ地域の軍司令官は、再び暴動が起こらないよう努力すると約束する一方で、襲撃されたら自衛できる態勢を整えておくよう、オーナーたちに求めたという。 つまり、いざとなったら軍は中国系の商店主たちを助けることはできないかもしれない、ということだ。5月の暴動で中国系の店が教われた際、軍や警察の多くが傍観しているだけだったが、こうした状況はまだ変わっていないということである。 事実、7月中旬には、インドネシア第二の都市スラバヤで、中国系の商店街が襲撃され、数百人の中国系店主と家族たちは、外国や、イスラム教徒が少ないため反中国系の暴動が少ないバリ島などに、逃げ出さねばならなかった。この時も警察や軍は、ほとんど何もしなかった。またインドネシア各地で依然、中国系の女性に対する暴行もときどき起きている。 インドネシアでは、全国に600万人いた中国系住民のうち、3万人が海外に脱出したと概算されている。残りの人々は、まだインドネシアに住んでいるが、暴動以来、店や事務所を閉めたまま、という人も多く、本格的なビジネス再開からは程遠い。 そんな中で営業を再開した、このパソコンショップの集合体は、中国系の人々にとってリトマス試験紙のような存在だろう。インドネシアでは8月17日の独立記念日に、再び暴動が起きるのではないか、との予測も流れており、この店が無傷で生き残っていけるかどうか、インドネシア内外の中国系の人々が見守っている。 中国系のインドネシア人が自国の現状に懐疑的なのは、5月の暴動を発生させた政治体制が、今も根本的なところであまり変わらずに残っている、と思われるフシがあるからだ。暴動の後、独裁者だったスハルト大統領が辞めたのだから、暴動前と今とでは、政治体制が全く違うではないか、と考える方も多いだろう。 だが、そもそも今は改革を進めているとされるハビビ大統領本人が怪しい。暴動を発生させた張本人ではないかと目され、軍法会議にかけられるかもしれないプラボウォ中将と親しい存在だったからだ。プラボウォ中将はスハルト前大統領の娘婿で、暴動を引き起こしてクーデターにつなげ、国民からそっぽを向かれたスハルトの代わりに自分が権力を握ろうとしたのではないか、とみられている。 ハビビは、スハルトから命じられてイスラム組織のトップに長く座ってきたが、プラボウォもまた、イスラム勢力を自らの権力基盤として持っていた。2人は、インドネシア経済を握る中国系を追い出し、経済支配力をプリブミの手に取り戻すべきだ、という考え方で一致していた。 こうしたハビビ大統領への疑念について説明するには、最近だんだんと明らかになってきた5月のジャカルタ暴動の真相について書かねばならない。 ●首都に解き放たれた暴力のプロたち 5月の暴動とは何だったのか、詳しく書かれているものの一つに、アジアウィークの記事がある。それによると、5月12日に、ジャカルタ郊外にあるトリサクティ大学の前で、反政府集会を開いていた学生たちが、ゴム弾しか使っていないはずの警官隊から実弾で撃たれ、学生4人が死亡したのが暴動の始まりだった。 その後の調べで、実弾を発射したのは学生と対峙する任務に当たっていた警官隊ではなく、軍の別の部隊の者が紛れ込んで撃ったことが分かった。撃った兵士の所属は公式には明らかにされていないが、ジャカルタからの報道では、プラボウォ中将配下の者であるという。 翌日、殺された学生を追悼する式典が大学で行われた。野党の有力政治家が出席している間は静かに式が進行したが、彼らが帰った後、学生たちが都心に向けてデモ行進を始めようとする段になって、近くにいた男たちが、急に駐車中の自動車をひっくり返したり、ビルのガラスを割ったりし始めた。 「何かおかしい」と感じた学生たちはデモを中止し、キャンパス内に戻ったが、乱暴を始めた男たちは、集まってきた一般市民を巻き込みながら、暴動を広げていった。これが、ジャカルタ暴動の始まりだった。 つまり、12日に学生を撃ち殺して、それまでは協調ムードがあった軍と学生のとの対立を深めておいてから、翌日の学生デモを利用して暴動にまで発展させようとした勢力があった、とみることができる。 当時、ジャカルタ地域の軍司令官はプラボウォ派のシャフリという人だった。軍の最高司令官であるウィラントが出した暴動鎮圧命令に対してシャフリは、ジャカルタの東を担当している部隊を西に、西を担当している部隊を東に行かせるという、おかしな指示を出した。不慣れな地域を担当させ、暴動を鎮圧する戦力を自ら削いだのだろう。その後、シャフリはウィラントによって担当を外されている。 暴動を扇動した乱暴者たちは、組織的に地方からジャカルタに集められた。東チモールからチャーター便の飛行機で連れてこられた連中もいた。 東チモールでは、インドネシアによる支配に反対するチモール人の若者らを夜中に暗殺したり、チモール人の村を焼き討ちしたりするインドネシア人の組織がある。公安当局から金をもらい、過去10-20年もの間、殺しや強姦、放火など、チモール人たちに物理的、精神的ダメージを与えてきた、人権侵害のプロ集団である。 そういう連中が雇われてジャカルタの町に解き放たれ、5-20人で一組になってチャイナタウンなどを襲い、人々をけしかけて略奪させたのだった。 ●32年前のクーデターを繰り返そうとした? もし、こんなひどいことを、軍のブラボウォ派が画策したとしたら、その理由は何だったのだろうか。なぜ、自分を軍司令官にしてくれたスハルトを大統領の座から蹴落とすようなことをしたのか。可能性の一つとして言われているのは、プラボウォはスハルト政権を倒すクーデターを起こそうとしていたのではないか、ということだ。そのシナリオは、次のようなものだ。 スハルト大統領は今年に入って、急速に国民の支持を失ったが、権力の座に留まりつづけた。政権は経済をコントロールできなくなり、末期状態にあった。そこで、スハルト大統領が5月中旬に中近東に外遊中を狙って、プラボウォは部下に大学生を撃ち殺させ、翌日には暴動を引き起こした。 スハルト大統領が帰国したら、プラボウォが暴動を鎮圧してみせ、暴動を止められなかったライバルのウィラントを蹴落として軍の最高司令官の座を獲得し、軍の全権を握った上で、スハルトを退陣に追い込む。スハルト氏が退陣した後は、気心が知れていて、しかも操作しやすいハビビを大統領に据えて暫定政権とし、しばらくしたらプラボウォ本人が大統領となるつもりだった・・・。 こうしたシナリオは32年前、軍人だったスハルトが、スカルノ大統領を追い出して自分が大統領になったときのやり方と似ている。プラボウォは陸軍戦略予備軍の司令官という、大統領になる前のスハルトと、全く同じ地位にあった。プラボウォは歴史を繰り返そうとしていたのかもしれない。 ハビビは、軍艦を自分の会社で修繕させて高い金を取るなど、軍の利権を横取りしたため、軍人の間で評判が悪かったが、プラボウォはそんなハビビと軍内の人脈との間をとりなした。2人の間柄は親しかった。 プラボウォは、インドネシア経済を中国系の支配から解き放ち、プリブミの手に戻すべきだ、と考えていたため、暴動によって中国系住民を痛めつけ、インドネシアから追い出そうとした可能性もあるが、そうした考え方はハビビも持っていたはずだ。 今のところ、ハビビはプラボウォと親しかったというだけで、暴動の一件で2人が共謀したという根拠はない。とはいえ、プラボウォがクーデターを起こそうと考えていたならば、ハビビは使えるコマだったに違いない。 現実はプラボウォが思っていたような方向には展開しなかった。プラボウォの画策に気づいたウィラントは、プラボウォ側の動きを封じ込め、いったんはスハルト大統領を支持すると表明して軍内を掌握し直した後、ハビビを後継者に指名して辞任するという筋書きをスハルトに飲ませた。 ハビビはプラボウォのコマとしてではなく、ウィラントのコマとして使われ、大統領に就任することになった。ハビビがウィラントと組んで大統領になると聞き、就任前夜、プラボウォは武器をフル装備した自分の部隊を連れてハビビ宅を訪れ、ハビビの裏切りをなじり、威嚇したという。 だが結局、プラボウォはウィラントとの争いに敗れ、地方都市バンドンの軍学校の校長という、名誉はあるが閑職に追いやられてしまった。 ●ハビビ新大統領は信頼できるのか こうしたいきさつを経て、現在のハビビ政権が誕生したわけだが、ハビビがもともとプラボウォと近い存在だったことを考えれば、中国系インドネシア人たちは、ハビビ大統領を信用する気にはなれないだろう。 しかもハビビは最近、ワシントンポストとのインタビューの中で、流通業など経済上の重要な役割を果たしていた中国系の実業家が外国に逃げたまま、ずっと戻ってこない場合、プリブミなど他の者がその役割を取って代われば良いのだから、中国系などいなくても大した問題ではない、という趣旨の発言をしている。これを聞いた内外の中国系インドネシア人たちは「ああ、ハビビは前と変わっていないな」と思っただろう。 しかも、ハビビのその考え方は間違っている。中国系がいなければインドネシアは血液を抜かれた人間のようなもので、死に体である。インドネシアでは今年、コメ不足が伝えられているが、深刻なのはコメ自体が足りないことよりも、コメの生産者と消費者の間をつなぐ中国系の流通業者が機能しなくなったことだ。 中国系の業者に代わり、国営の穀物会社や軍が直接、人々にコメを売る動きもあるが、そうしたコメを買いに来た人々は、何時間も、下手をすると何日も行列を作ってコメが到着するのを待たねばならなくなっている。中国系の人々が安心してビジネスをできる日が再び来ない限り、インドネシア経済が復興することは非常に難しいのである。 しかも、プラボウォ本人は権力を奪われたが、まだその系統の軍や治安関係者は多く残っている。5月の暴動で強姦された女性たちの家族のもとに、その後だいぶたってから、被害を受けたときの写真が送り付けられたりしている。こうした手の込んだ嫌がらせができるのは、インドネシアでは軍など公安系の組織しかない。 インドネシア専門家によると、日本の商社の中には「そろそろハビビにつながる人脈に食い込もう」と考えている向きがあるそうだ。日本政府も「改革を進める」というハビビ政権を積極的に支持する方向のようだが、慎重にやったほうがいいと思う。
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