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★ TPO (Time Place Object)      
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                         (1999年7月24日)

夏の日差しがジリジリと照りつける、とても暑い7月のある日の出来事。
僕は仕事に出かけるため、新所沢駅のホームで電車が来るのを待っていた。い
つもと同じ時間に、急行西武新宿行きの電車がホームに入って来た。ぼんやり
と車内を眺めながら停車するのを待っていると、突然、見慣れぬ物体が目に飛
び込んできた。

「あれっ、パンダだ」、僕は少し驚いた。中に人が入っているパンダのぬいぐ
るみが一頭(?)、座席にダラ〜ッと座って、大きな頭を前に垂らし、居眠り
していたのである。「なんでこんなところに。またこの暑い日に頭までかぶっ
て」、と不思議に思ったので、少し離れた場所に座って観察することにした。

そのパンダは、体の白い部分がグレー色に薄汚れていて、祭りで着るような青
いハッピを着ていた。よく開店セールで風船やチラシを配っている類のキャラ
である。パンダの横には2人分ほどの空席があるのだが、誰も座らない。他の
席は全て埋め尽くされていて、立っている人も多いというのに。

乗客を見渡してみると、誰もパンダに注目していない。「うっそ〜、なんで?」
と不思議に思った。僕は面白くて仕方ないのにな。

なぜ、この格好で電車に乗ってるんだろう? これから仕事なのかな? 終わ
って家に帰るのかな? そのまま家から来たの? どうして頭は被ったままな
の? どんな人が中に入ってるの? いろんな疑問が沸きあがってくる。

電車が次の航空公園駅に到着して、新たな乗客が乗り込んできた。何人かが空
席を見つけて座りかけるのだが、隣にパンダが座っているのを知ると、一様に
立ち去ってしまう。視線も冷ややかである。皆、一度はちらりと視線を向ける
のだが、すぐに外してしまう。顔も無表情のままだ。

確かにこの <パンダがいる> シチュエーションは、少し不気味だ。片手を端
のパイプに肘かけて、居眠りしているパンダは全然かわいくない。うっかり隣
に座ると「わっ!」とかいって脅かされるような気がして、ちょっと怖い。そ
れに、居眠りしているように見えて、実は辺りを見渡しているかもしれないの
だ。どこから覗いているのかもよくわからない。こちらがじっと見ていて「な
に見てんだよ」なんて低い声で言われたら、きっと心臓に悪い。

スティーブンキングの「IT」という映画に悪魔のピエロが出てくるのだが、薄
暗い人通りのない場所で、陽気に振る舞うピエロは怖い。今の状況はその逆で、
明るい人混みの中で、じっとして動かないパンダのぬいぐるみは見たことが無
いので、これまた怖い。

電車は所沢駅に到着し、僕は乗り換えのため席を立った。パンダもノッソリと
立ち上がり、ドアの前に並んでいる。そのパンダはとても猫背だった。頭が重
すぎて前のめりになっているのかもしれない。

ホームで待っている乗客の視線が、車内のパンダに注がれている。ドアが開き、
パンダはゆっくりと歩き出した。かなり与太っている。お疲れなのだろうか? 
それとも中身は脱水症状の爺さんかもしれない。

そのとき、ホームにいた子供達がパンダを見つけて手を振った。
すると、パンダはお茶目なポーズを取って、元気良く手を振り返した。「なあ
んだ、愛嬌あるじゃん。よかった」、僕は少し安心した。子供に夢を与えるパ
ンダともなると、勤務時間外でも手を抜けないんだな、きっと。

パンダは相変わらず与太りながら、出口へ向かってのそのそ歩いている。その
ハッピの背中には、<ハッピーバースデー> という文字が赤くプリントされ
ている。お〜っ、なんてこった。それは新所沢駅前にあるテレクラの名前じゃ
ないか。そうか、このパンダはテレクラの宣伝マンなのだ。子供に夢を与えつ
つ、子供に言えない夢を女性に与えていたのか。なんとも複雑な気分だ。

パンダが一組の母娘の前で急に立ち止まった。小学校4年生くらいの、眼鏡を
かけたお下げ髪の少女の後ろ側に回り込み、全く必然性の無い状況で、突如、
娘を背後から抱きしめた。少女は笑顔で身を委ね、母親も微笑している。パン
ダは少女を抱きしめたまま、じっとして動かない。5秒、10秒、15秒、
「えっ? もしかして変態?」という考えが、僕の頭を過ぎったのと同時に、
パンダは少女を解放した。「ふぅ〜〜っ」と、僕は息を吐き、ホッとした。
その母娘が、あらぬ疑いを抱かなくて、本当によかった。

そして、僕にとってのお騒がせパンダは、エスカレーターに乗って、よろよろ
と改札へ消えていった。


■深夜の電車内での出来事

一年ほど前の、夏の出来事である。
仕事をし終えて帰宅するために、最終電車に乗り込んだ。その日は金曜日だっ
たので、車内はわりと混み合っていた。どうにか座ることが出来、何気なく車
内を見渡すと、1人の老人の姿が目に止まった。その老人は、年齢65歳くら
いの小柄で小太りのハゲチャビンで、僕の斜め前の位置に座っていた。お酒を
飲んでいるようで、顔が赤らんでいる。鼻歌を口ずさんでいて上機嫌だ。

扉が閉まり、電車が発車した。
老人は、自分の買い物袋から、今日購入したと思われる、包装紙にくるまった
細長い物を取り出した。丁寧に包装紙を剥がすと、そろばんくらいの大きさの
黒い箱が出てきた。その箱のふたを開けて中から取り出したもの、それは新品
の「ステンレス包丁」だった。

僕は目を疑った。なんとこの酒に酔った老人は、大勢の人前で刃物を握りしめ
ているのだ。その老人の2人隣に座っていた女性が、すぐさま立ち上がって他
の車両へ移動した。賢明な判断である。しかしその他の乗客は、そのままの状
態で、包丁を握っている様を見ている。

老人が、包丁を調理以外の目的で使用しないという保証が、どこにあるという
のか。身の危険を感じている人はいないようだ。平和ボケするのもいい加減に
しろよ、日本人!

僕は、自分自身の危険度を計算した。「まず真正面に立っている男がブスッと
刺されて、それからその隣の男を斬りつけて、そして僕のところへ来たとして
も、3人目だろ。充分逃げる時間はあるな」 そう都合よく判断して少し気持
を落ち着かせた。

老人の隣に座って漫画本を読んでいた20代のサラリーマンが、本から顔を上
げて、老人と包丁を交互に何度か見た後、首を傾げて、また漫画本に目を戻し
た。

「あほたれ〜! それでいいのか! お前なんか刺されちまえ〜!」 僕は興
奮してきた。老人は相変わらず、にやにや笑いながら包丁を眺めている。不気
味な笑顔だ。何かが起こるかもしれない。そう予感した僕は、ますます老人の
行動から目が離せなくなった。目の前で人が刺されるのを見るのは、今日が生
まれて初めてだ。しっかりと目に焼き付けなければと、僕は決意した。よおし、
爺ちゃん。僕は準備OKだよ。いつでもど〜ぞ!

老人は、相変わらず包丁を楽しそうに眺めている。裏、表、裏、表、と包丁を
回しながら、飽きることなく見ている。彼の目に乗客は映っていないのだ。老
人にとってこの行動は、彼の住む四畳半の部屋の中で見ているのと同じ事なの
だ。

彼は今日、この包丁を小田急ハルクの家庭雑貨売場の実演販売コーナーで購入
した。現在、自宅にある包丁は、もう20年も使っている。今まで包丁など握
ったこともなく、仕事一辺倒の男だった。しかし、妻が病床についてからは、
自ら進んで料理を作るようになった。出来合いの料理は、妻が受け付けないか
らである。一生懸命作った料理だからと言って、妻は無理して食べてくれた。
最初は仕方なく作っていた料理だが、そのうち少しずつではあるが、作ること
が好きになっていった。テレビの料理番組を見たり、区のカルチャースクール
で行われる料理教室に通ったりもした。しかし、東北育ち特有の濃い味付けに
慣らされてしまったその舌は、淡泊な味付けを好む妻には受け入れられず、妻
の食事量は日に日に落ちていき、病状は悪化する一方だった。

ある晩、妻が老人に言った。「私が死んでも、ちゃんと1人で料理を作って食
べて下さいね。出来合いのものは、栄養のバランスが悪いから・・・約束しま
したよ」 その翌日、妻は目覚めなかった。老人は、悲しみを紛らわす為にキ
ャベツの千切りを刻みまくった。「へへ・・・キャベツなのに涙が止まんね〜
や」 その下手くそなキャベツの千切りは、しかし、トンカツ屋が開けるほど
膨大な量となった。

妻の四十九日も過ぎ、老人は小田急ハルクへと出かけていった。目的は実演販
売コーナーである。以前から、実演販売で扱っている商品が、何でも魅力的に
見えて、ついつい買ってしまう癖があった。得意げに持ち帰ると、妻に「また
こんなもの買ってきて。あなたはすぐ騙されるんだから」と、咎められていた。
しかし今日は買って帰っても怒られることがないのだ。

売場では、錆びない・研がなくても10年間切れ味抜群と唱った包丁の実演を
していた。この包丁が実に良く切れる。老人は驚いた。普通の包丁よりも値段
はかなり高めだったが「10年使えりゃ一生だ」と思い、えいやっと勢いで買
ってしまった。その後、寄り合いで、しこたま酒を飲みながら、友人相手に包
丁の切れ味を肴を刻んで実演し、拍手喝采を浴びて、非常に気分が良い。お陰
ですっかり帰りが遅くなってしまい、最終電車での帰宅となってしまった。帰
りに包丁を一度箱にしまって、包装紙を綺麗に包み直したのだが、どうしても
今、もう一度見たくてたまらない。「まいっか、見ちゃお」と子供に返った老
人は、車内で包丁を取り出すのだった。

ドカン、と大きな音がして、僕は我に返った。音のした方向を見ると、駅のホ
ームにいる若者が車内にいる友人を見送っているところだった。酔った勢いで
電車を蹴ったらしい。駅員が走り寄って来たが、若者はいち早く逃げて行って
しまった。

また僕は妄想していたらしい。どうも最近妄想癖があるようだ。老人は、もう
包丁をしまっていた。包装紙で箱を丁寧に包んでいるところだった。どうやら
最寄り駅が近いらしい。

この老人は、あと何年くらい自分で料理を作ることが出来るのだろうか。明日
から楽しい包丁人生が待っているのだろう。目が希望に向かって輝いているよ
うに見える。「どうか長生きして楽しんで料理を作っていって下さい」と、僕
は勝手な想像のもと、心の中で両手を合わせた。<END>