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★ 平気で嘘をつく男たち(1) 生と死の狭間で 
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今から5年ほど前の4月のことである。当店で働く大学生アルバイト、菅沼の母親が
体調不良を訴え、大学病院に緊急入院した。精密検査の結果、母親の体は癌に冒され
ていることがわかった。すでに体のあちらこちらに転移しており、家族は医師に余命
1年という宣告を受けた。それを聞いた菅沼はうろたえ、嘆き悲しんだ。当然、当店
でアルバイトをしている場合ではなく、すぐさま長期休暇を取って実家のある御殿場
に飛んで帰り、母親の看病に明け暮れることになった。

母親の手術は一旦は無事に終わり、一見回復に向かっているかのように見えた。しか
し予断は許さない。またいつ病状が悪化するかもしれないのだ。

菅沼は、癌とは知らぬ母親を励まし続け、そして影では涙が枯れるまで号泣する日々
を送っていた。当時のアルバイトはみんなとても仲が良かったので、毎日、代わる代
わる菅沼に電話をかけては彼の悩みを聞き、そして励まし続けたのだった。

菅沼がいなくなった当店は、どことなく淋しげに映ってしまう。菅沼はその持ち前の
明るさで、仕事中はいつも陽気に振る舞い、みんなの気持を高めるムードメーカー的
存在だった。それゆえに彼が不在のこの店は、アルバイトにも今ひとつ活気が戻らな
い。みんなは菅沼のことを他人事として考えられなかったのだ。

10月になると、菅沼はまたアルバイトをさせてほしいと当店を訪れた。僕は彼の母
親の病状を考え躊躇したのだが、母親が彼に今まで通りの生活をしてほしいと切望し
たことによる選択だということを聞き、それではなるべく無理のないシフトで働いて
もらえるならと了承した。

アルバイトは皆、菅沼が戻ってきたことを素直に喜んだ。菅沼自身も働いている間は
少しは気分が紛れるようで、以前のように明るく振る舞えるようになっていった。時
折ふっと悲しげな表情を見せるのだが、つまらぬ事は考えまいと小さく首を横に振り、
仕事に打ち込むその後ろ姿を僕は心の中で励まし続けた。

その後しばらく彼は当店でのアルバイトを続けたのだが、12月に入って母親の容体
が再び悪化した。菅沼は突然の欠勤を僕に詫びて病院へ戻った。母親は再手術の後、
小康状態を保ち、なんとか新年を迎えることができたようだ。

1月半ば過ぎに菅沼が店に顔を出した。すっかりやつれているかと思いきや、実に健
康そうで、おまけに顔はスキー焼けまでしていて僕を驚かせた。彼が言うには、母親
の状態が近頃わりと良かったので、気分転換のつもりでスキーに出かけたとのことだ
った。正直言って何となく心に引っかかるものを感じたのだが、そりゃ時には気分転
換も必要だなと理解し、よからぬ考えを払拭した。

菅沼は、宙ぶらりんのまま当店に籍だけ置いていることを気遣い、むしろ自分は辞め
てしまった方が店のために良いのではないかと悩みを打ち明けた。僕は、そんなこと
はない、いつでも戻って来いよと彼を激励した。彼はとても嬉しいと何度も礼を言い
残して晴れやかに帰っていった。

3月中旬になると、大学4年生のアルバイトは学校を卒業し、当店からも巣立ってゆ
く。一時的に従業員が少なくなる上に、各会社の送別会の流れもあって当店はかなり
混み合うのである。この時期に合わせて募集広告を店の入り口に貼りだしておいたの
だが、今年は例年以上に応募者が多い。そこで早めに補充人員を確保したいことから
菅沼の今後の予定を聞くために、彼の実家に電話をすることにした。彼は母親の看病
のため、実家にいるはずである。

「もしもし、菅沼さんのお宅でしょうか。鳴海と申しますが、弘明さんはいらっしゃ
いますか」と尋ねると、相手の方は穏やかな低い声で「弘明は東京に行ってまして、
こちらにはしばらく帰ってきてないんですよ」と答えた。どうやら彼の父親のようで
ある。

「あっそうなんですか。失礼ですが弘明君のお父様でいらっしゃいますか。実は弘明
君がお母様の看病のために実家の方に戻っていると思ってお電話したのですが・・・」

「いいえ、私も連絡をとりたいのですが、全然つかまらなくて困ってるんですよ」

「あの・・・失礼ですがお母様の御加減いかがですか」

「ええ、おかげさまで先日退院して、現在は家で静養しているところです。もうすっ
かり良くなりました」

すっかり良くなったって? 余命1年と宣告されたのではなかったか。僕は無礼を
承知で少し突っ込んで聞いてみることにした。

「それはおめでとうございます。実はお母様が大変な御病気だったと伺っていたもの
ですから、当店の従業員一同、皆心配していたんです。失礼ですがお母様の御病気は
癌だと伺っていたのですが、もうすっかりよろしいんですか」

「えっ?・・・家内は癌ではありませんよ。入院はしていましたけど、生死にかかわ
る病気では無いんですが」

「あっ、それは失礼しました。僕は菅沼君からそのように聞いていまして、当店のア
ルバイトもいつも彼を励ましていたものですから」

「・・・そうですか。弘明は皆さんにそんなことを言っていたんですか。それは皆さ
んに御迷惑をおかけしました・・・」

騙された・・・母親は癌ではなかった。僕たちはなんと1年もの間、騙され続けてき
たのだ。僕は足下がふらついた。しかし、反面「やっぱりな」という気持も沸き上が
って来る。彼はなぜこんなに長い間、みんなに嘘をつき続けたのだろうか。 

僕はその日、1日中、菅沼のことが頭から離れなかった。なぜだ。自分に都合良く仕
事を休むための口実にそんな大嘘をつけるのか。ある時など、夜通しみんなで慰めた
こともあると聞いている。嘘をついてまでみんなに構ってほしいのか。いつもみんな
に気を使ってもらいたいのか。罪悪感は無いのか。自尊心は傷つかないのか。

怒濤のごとく溢れ出てくる疑問の数々に、僕は何一つとして答えを見つけることが出
来なかった。しかし、このことは真相がわかるまで他の従業員には決して話してはい
けないと、自分の肝に銘じた。

僕は菅沼の東京の住まいに電話をかけ、素知らぬ声で留守電に今後の予定を教えてほ
しいと吹き込んだ。その2日後の夕方に、彼から電話がかかってきた。

「今まで散々ご迷惑をおかけしましたが、今朝、母が息を引き取りました。皆さんか
らずっと励まされてここまで何とかやってくることができました。本当にありがとう
ございました。実はこの3月で大学を中退して働こうと考えています。せっかく待っ
ていて下さったのにどうも申し訳ありませんでした」

とうとうお袋さんを殺しやがった・・・このパラノイアめ。僕は止めどなくこみ上げ
て来る怒りをかろうじて抑え、優しげな声色を作り、そして言った。

「そうか、それはご愁傷様でした。今までよく頑張ったね。ずっとお母さんの看病を
していたんでしょ? お母さんもきっと淋しくなかったと思うよ。それから、店を辞
めてしまうことも了承しました。仕方がないよね。ただ、このままお別れするのは淋
しいし、みんなにも最後の挨拶をしてほしいしさ、近いうちに店に顔を出せない?」

「そうですね。大丈夫ですよ。あさっての夕方、そちらに御挨拶に伺います」「うん、
じゃあさってね。待ってるよ」 僕は受話器を置き、そしてまたすぐ手に取った。菅
沼の母親の無事を確認しなければならない。

僕は急いで菅沼の実家に電話をかけた。呼び出し音が10回ほど鳴った後「もしもし」
と電話に出たのは、彼の母親だった。やっぱり嘘だったのだ。あの野郎・・・

2日後の午後4時半頃、何も知らずに菅沼が店にやってきた。案の定、落ち込んだ風
を装っている。僕は彼を4人掛けのテーブル席へ案内して、「今回は大変だったね」
と労いの言葉を掛けた。菅沼は辛そうな表情を浮かべたまま言葉少なに礼を言った。
この顔にずっと騙されてきたのかと、僕ははらわたが煮えくり返る思いだった。

「お母さんはどこで亡くなったの?」

「入院していた病院で2日前に亡くなりました。最後の方はもうずっと意識が無かっ
たんですけど、息を引き取るまでそばにいられたので、それは良かったなと思ってい
ます」 今だ!

僕は彼に飛びかかり、胸ぐらを掴んで彼の頬に2度、平手打ちをくらわせた。

「嘘じゃね〜か、何もかも! 知ってんだよオレは! お袋さん、死んでね〜じゃね
〜か! どういうつもりだ、このヤロ〜! みんなの気持を踏みにじりやがって。 
おい! なんとか言ってみろよ!」

菅沼は僕に伸し掛かられながら胸ぐらをグイグイ締め付けられているこの突然の状況
を、全く理解できていないようだ。カッと見開いた目で僕を見つめたまま口をポカン
と開けている。彼に馬乗りになったまま、しばらく問いつめてはみたものの、アホに
なってしまったのかと思えるほどの無反応な態度に白けてしまい、もうどうでもよく
なってしまった。それになぜ嘘をついたのかと今さら理由を聞いても始まらない。

「もう出ていけ。2度と来るな」

僕はその場を立ち去り、キッチンに入ってフードの仕込みを始めた。やりきれない気
分だった。怒りと悲しみが入り交じって妙な虚脱感を感じる。

5分ほどして、帰ったものだとばかり思っていた菅沼がキッチンに顔を覗かせた。
「店長、すいませんでした。本当にすいませんでした」と何度も謝るのだが、彼の顔
に罪悪感は見えない。すっきりした顔にすら見える。「出ていけって言っただろ」と
言ってもまるで動じず、挙げ句の果てに「今度飲みに来ますね」などとたわけたこと
まで言い始めた。仕方がないので大声で「お前は出入り禁止だ。2度と来るな。とっ
とと失せろ!」と叫び、やっと追い返すことが出来た。

その日、他のアルバイトに菅沼のことを話した。皆、一様に「信じられない」と言葉
を発して驚き、そして悲しみに暮れていた。僕も多くは語らず、みんなをそっとして
おくことにした。その後、菅沼のことは決して誰からも語られることはなかった。

それから2年後のある日、当店の新人アルバイトの女の子が僕に話しかけてきた。

「店長、さっき外でナンパされたんですけど、その人にどこでバイトしてるのって聞
かれて、この店の名前を言ったんです。そしたらその人、前にこの店でアルバイトを
していたことがあるって言ってました。ここで働いていた時はカウンターを任されて、
バリバリカクテルを作ってたって。あっそうだ。名刺を貰ったんだっけ。店長、これ
です。この人知ってますか」

彼女に名刺を手渡されて名前を見ると、そこには「菅沼弘明」と書いてあった。

「ああ、知ってるよ。こいつはお袋さんが癌で死んだって嘘ついて、オレに殴られて
辞めていった男だよ。それから、あまり仕事が早く出来る方じゃなかったから、カウ
ンターには入れてなかった。ずっとホール係だったよ」

そう言って名刺を返そうとしたら「もういりません。捨てて下さい」と彼女は吐き捨
てるように言った。僕はその名刺を、小さくなるまで何度も何度も細かく破り、そし
てゴミ箱に捨てた。<END>
                            (2000年1月30日)