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★ 愛する人を失った悲しみ
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以前、六本木のカクテルバーで働いていたことがある。その店では実に様々な
出来事が起こった。今日は、そのうちの1つを御紹介しようと思う。ある年の年末の出来事である。世の中はバブル真っ只中で景気が良く、クリス
マスまでまだ1週間もあるというのに、六本木では夜毎、浮かれた人々が乱痴
気騒ぎを繰り返していた。この時期、これからもっと店が忙しくなるというのに、当店は人手不足に悩ま
され、このままではにっちもさっちもいかなくなるのは必至だった。そこでオ
ーナーと相談して、本店からアルバイトを1人、ヘルプとして貸してもらうこ
とになった。次の日の夕方、「おはよ〜ございま〜す!」と元気に救いの天使がやってきた。
名前は佐伯君といい、明るくはきはきと話す好青年だった。年齢は21歳で、
やや小柄で痩せ形、顎髭をたくわえており、精悍な顔つきをしている。店の雰
囲気に合った子が来てくれて良かったと、僕は胸をなで下ろした。店内を一通り案内した後、2人で制服に着替えていると、彼が明るい声で話し
かけてきた。「鳴海さ〜ん、ちょっと聞いて下さいよお。僕の彼女が今日、死んじゃったん
ですよぉ」
「えっ!?」
「僕の彼女、保母さんをやってるんですけどぉ、今日、保育園のバス遠足があ
って、バスが崖から転落して、園児も全員死んじゃったんですよぉ」
「大変じゃん! 働いてる場合じゃないじゃない? 彼女のところへ行ってあ
げなきゃ」
「死んじゃったんですから行ってもしょうがないっすよぉ。僕は大丈夫です。
バッチリ働きますよお!」(何だコイツ? この話はホントなのかな。何で笑っていられるんだろう。変
だよ変だよ、おかしいよおかしいよ。妄想かな? 嘘ついてるのかな? ヤバ
イよ、コイツ) 僕は少し動揺してしまった。彼は言葉を続けた。「鳴海さ〜ん、明日の新聞、絶対見て下さいね〜。彼女の記事がきっと載りま
すから。約束ですよ〜」
「う、うん・・・」僕はすぐに他の従業員にこの話をした。
「彼、嘘ついてるんじゃないですか? おかしいですよ、そんなの」
「そうかなあ、やっぱりそうかなあ、そうだよなあ」果たしてそんな突拍子もない嘘をつくものだろうか? とても気になるので、
本店の店長に電話して彼のことを聞いてみた。店長は、彼は嘘をつくような男
ではないと力説していた。保母さんとも確かにつき合っていたとのことだった。
佐伯は今日うちに来る前に本店に立ち寄っており、店長にも同じ話をしていた。
店長は当店へのヘルプを休ませようとしたのだが、佐伯は「行くっていう約束
ですから」と言って聞き入れなかったそうだ。その日1日、僕は佐伯に目を配りながら仕事を行ったが、特に変わったところ
は無く、普通に仕事をこなして「明日もよろしくお願いしま〜す」と明るく挨
拶して帰って行った。しかし、2日日から次第に変化が現れてきた。次の日、佐伯は約束の時間通りに出勤し、前日と同じように普通に働き始めた。
僕は当時、新聞を取っていなかったので、その事故の記事を読むことは出来な
かったのだが、他の従業員が佐伯の言っていた通りの事故の記事を見つけたと
僕に教えてくれた。あの話は本当だったようだ。仕事中に佐伯が明るい声で僕に話しかけてきた。
「鳴海さ〜ん、新聞読んでもらえました? ちゃんと彼女の事故の記事が載っ
てたんですよ〜」
「いや・・・ごめん・・・ちょっと見れなかった」急に彼の顔から笑顔が消えた。
「どうして見てくれなかったんですか? ちゃんと載ってたのに・・・見てく
れるって言ってたじゃないですか・・・約束したじゃないですかぁ」
「ごめん・・・悪かったよ」 僕は思わず謝ってしまった。しばらくして従業員が「佐伯の様子がちょっと変なんです」と言ってきた。何
かぶつぶつ言いながら時々くすくす笑うのだという。「気持ち悪いっすよ」と
いう従業員をなだめて、彼から目を離さないようにと伝えた。店の混雑が少し落ち着いて、従業員数人と話をしていた。そこへ佐伯が近づい
てきて小声で「みのもんた」と囁いた。「えっ?」と聞き返したら、「なんで
もありません!!」と大声を出して立ち去ってしまった。みのもんたに関連の
ある話などしていなかったので、皆、驚いてしまった。3日目になると、佐伯は頻繁に独り言を言いながらニヤニヤ薄笑いを浮かべる
ようになった。「大変です!」 従業員が血相を変えてやってきた。
「佐伯が厨房で包丁を振り回しながら踊ってます!」慌てて厨房へ行き、入り口からこっそり覗いてみると、佐伯がフェンシングの
ようなポーズで跳ねながら「シュッシュッ」と息を吐き、包丁を突くようなし
ぐさを延々と繰り返していた。顔つきは真剣だ。僕たちは怖くなって、その場
を離れた。従業員は皆、怯えてしまい、彼と一緒に働くのは嫌だと言い始めた。確かにこ
れでは落ち着いて仕事が出来ない。佐伯を呼んで「今日は店も落ち着いたので
早退していいよ」と言って帰ってもらった。後でオーナーに話して、今日でヘ
ルプは終わりにしてもらおう。深夜になり、僕は控え室で休憩を取ることにした。控え室のドアを開けて中に
入り、電灯のスイッチをONにした。古くなった蛍光灯が2〜3度ゆっくりと点
滅した後、明るくなった僕の目の前に佐伯がいた。「うわっ!! 何やってんの! 帰ったんじゃなかったの!」僕は思わず大声
を上げてしまった。佐伯は上半身は自分の服を着ているが、下半身はパンツ一丁のままで、床に座
って首をうなだれていた。「どうしたの!」と聞くと、彼は僕を見上げてつぶ
やいた。「僕のズボンが無いんです・・・」「えっ?」
「僕のズボンが無いんです・・・」
「電気をつけて探さなきゃ見つからないよ!」
「ちゃんと探しました・・・探しましたけど見つからないんです・・・」彼はすっかり憔悴しきっていた。早退させてから、もうかれこれ2時間は経っ
ているのだ。その間中、彼は自分のズボンを探していたのだろうか。でも僕が
この部屋に入った時、明かりはついていなかった。真っ暗な部屋の中をずっと
探していたのか? 怖い、怖すぎるぞ。「じゃ、一緒にズボンを探そう」と言って、僕はズボンを探し始めた。彼のす
ぐ近くにあったズボンを取り上げて「これは違う?」と聞いた。佐伯はそのズ
ボンを手に取り「・・・これです」と言った。もう佐伯は完全に常軌を逸してしまっていた。このまま帰すのも心配だったが、
店に残すのも不安が残る。少し様子を見た後、タクシーに乗せて帰した。その
後、オーナーに電話をかけて詳細を報告し、佐伯のヘルプは本日で終わりにし
てもらった。翌日、本店より佐伯の自宅の電話番号を教えてもらい、佐伯の母親に電話した。
佐伯は彼女が亡くなって、かなりショックを受けていたようなので、しばらく
の間ゆっくりと休養を取った方が良いと思うと伝えると、母親も彼の行動に気
になるところがあるらしく、こちらの意図を読み取って了承してくれた。やれやれと胸をなで下ろしたのも束の間、貴重なヘルプを失った当店は、数少
ない従業員をやりくりして、悪夢のように忙しい年末年始をなんとか乗り切ら
ねばならなかった。しばらくの間は、佐伯のことが話題に上っていたが、毎日
の仕事に忙殺されているうち、いつしか記憶の彼方に刻まれて、誰も彼のこと
を口にしなくなっていった。それから3ヶ月後の3月下旬、店に1本の電話がかかってきた。
「もしもし〜、鳴海さんですかぁ? お元気ですかぁ? 僕です。わかります
かぁ?」佐伯からである。僕は息を飲んだ。
「去年の暮れにそちらで働いたんですが、仕事がとっても楽しかったんで、ま
たアルバイトをしたいなあって思って電話したんです。また働かせて下さいよ
お!」げげっ! 急にそんなことを言われて、なんと答えて良いのか思い浮かばず、
とりあえず「うん、いいよ」と返事をした。(実際にやって来たら、その時に
考えてみよう)と思ったのだ。「ホントですか? ありがとうございま〜す! じゃあ退院したら行きますね。
さようなら〜!」退院? いま退院って言ったよな。どこかに入院してるんだ。まさか・・・・
その後、佐伯からの連絡は1度も無く、店にやって来ることも無かった。現在、
彼がどこでどうしているのか、消息は不明である。<END>
(1999年11月1日)