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★ メガネと私
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                            (2000年7月31日)

 先日、10年以上僕と行動を共にしてきたメガネを壊してしまった。自損である。
仕事の準備中、副店長に「店長、メガネとフレームの角度、おかしくないですか」と
指摘されたのが破損のきっかけだ。普段、メガネをちゃんとチェックしていなかった
のだが、よくよく見るとなるほど少し曲がっている。プラスチックレンズを直接留め
ているネジが緩み、フレームがずれているようだ。

 軽く力を加えて直そうと試みたのだが、なかなか元に戻らない。「店長、レンズが
割れちゃいますよ」と心配する副店長を無視して、もう少しもう少しと力を加えてい
たら、バキッと嫌な音がして、レンズの端が割れてしまった。

 長年、僕と苦楽を共にしてきたこのメガネは、人間でいうと90歳をとっくに超え
ているはずだ。とても辛いけど修理して延命させたりせずに、このまま安らかに永眠
させようと思う。ああ、思い出せば、前回メガネが壊れたのはギリシャに滞在してい
た時だったなあ。

▼異国の地で

 数年前のこと。アテネ市内のホテルに宿泊し、夕食を食べ終わってこれからパルテ
ノン神殿の下の野外音楽堂で行われるダイアナロスのコンサートへ行こうと、ホテル
の入口を出たところで、レストランにカメラを置き忘れたのを思い出した。盗難を恐
れて慌てて取りに戻ろうとした瞬間、ホテルの入口のガラス扉に激突してメガネのレ
ンズが割れてしまった。

 ガラス扉にひどく顔を打ち付けた痛みよりも、メガネが壊れたショックの方が数倍
大きかった。なぜならメガネの予備を持っていなかったのである。コンサートに行っ
ている場合ではなくなってしまい、僕はホテルの売店で瞬間接着剤を探し始めた。し
かしそんな気の利いた物はどこにも売っていない。仕方がないので、ある店の男性店
員に実はメガネを壊しちゃってと伝えると、「オー、メガネ見セテ下サ〜イ。修理シ
マ〜ス」と言って、セメダインをベタベタと塗りつけ、セロテープでレンズをグルグ
ル巻きにして「ハイ ドーゾ」と手渡してくれた。

 せっかく修理してくれたのは嬉しいのだが、これでは片目しか見えなくて具合が
悪い上、プラスチックレンズ中にベタベタに付着しているセメダインを放っておいた
ら、固まって使用不能になってしまう。僕は丁重に礼を言い、部屋に戻って急いでセ
ロテープを剥がし、メガネを洗ってセメダインを落とした。

 明日はスイスへ行く予定だが、どこかの町で雑貨店か文房具店を探さなければなら
ない。瞬間接着剤なんて売っているのだろうか。そんな不安な気持ちを忘れるために、
その日はギリシャの夜を満喫することもなく、とっとと寝てしまった。

 次の日、目の前がぼんやりと霞んで気分の悪いまま空港へ行き、ジュネーブ行きの
飛行機に乗り込んだ。しかし悪いときには悪いことが重なるものである。

 僕の隣の席に大柄な外国人の老人が座っていたのだが、飛行機が離陸した途端、老
人は椅子からお尻を浮かせて、空気椅子に座るような格好をしている。いったい何を
しているんだろうと思った直後、強烈な悪臭が僕の鼻を刺激した。おえっ、臭い!何
だ何だこの臭いは。も、も、もしや!

 老人はウンコを漏らしていた。さすがは外国人だ。普段、臭いの強い食物(臭いチ
ーズとか)を食べているのだろう。その臭いはくさいのくさくないの、どっちだよ〜
と思うほど臭かった。おまけに飛行機ときたら換気を強烈に行っているので、僕の周
りの人々に、その凄まじい臭いをお届けすることが出来ない。僕だけが臭さに悶絶し
ているのだ。

 シートベルト装着ランプが消えた途端、老人はゆっくりと立ち上がった。通路を隔
てて座っている彼の妻らしき人が異変に気付き、心配そうに声をかけた。老人は「う
んうん」と頷き、ゆっくりと後方にあるトイレへ向かって歩き始めた。僕は通路に顔
を覗かせ、老人の後ろ姿を目を細めて追った。彼の進路の両側に座っている客が次々
に激しく辺りを見渡し、悪臭の元を探している。老人の穿いている白いチノパンの一
部が褐色に染まっていた。

 今のうちに新鮮な空気をたっぷりと吸い込んでおかなきゃ。僕は深呼吸を繰り返し
た。しかし、老人は程なくして戻ってきた。相変わらず悪臭の塊のままだ。そこへ機
内の前方でスチュワーデスが客に何やら配り始めた。機内食である。こんな場所で食
べられないよ。僕は愕然とした。

 すでに料理は僕の3列前の座席まで運ばれて来ている。その時、老人が再び立ち上
がって、よろよろとトイレに消えていった。たぶん僕に気を使って席を外してくれた
のだ。僕は老人に感謝の意を表明して機内食を口にどんどん詰め込み、あっという間
に食べ終えた。

 その後、僕は残された小1時間を老人とどのように過ごせばよいのかを考えた。臭
覚は、その臭いを積極的に嗅ぐことによって麻痺する。そうだ、悪臭を制するには臭
いから逃げてはいけない。むしろ嗅ぐのだ。吸い込むのだ。

 老人が戻ってきてからというもの、僕はその悪臭を何度も深々と吸い込んだ。肺に
悪臭分子が充満していくのを感じたが、背に腹は代えられない。どんどんどんどん吸
い込んだ。次第に臭覚が麻痺してきた。いいぞいいぞ、その調子。少しして、とうと
う僕の鼻は、ウンコ臭さを全く感じない愚鼻になることに成功した。

 飛行機が空港に着陸し、機内の換気システムのスイッチが切られた途端、機内中に
悪臭が充満した。他の客が嫌な顔をしながら騒いでいる。その時1人の外国人が吐き
捨てた。「Oh! shit!」 そのまんまやんけ、がはははは。僕はずっとこの臭いと隣
り合わせていたのだ。みんなも存分に吸い込んでくれ。

 空港内の売店で瞬間接着剤を探したのだが見つからず、僕は次の目的地、ローザン
ヌへと向かった。明日は登山鉄道に乗ってマッターホルンへ行く予定なのだ。今日中
にどうしても接着剤が必要だ。

 ローザンヌに到着し、すぐさま僕は文房具店を求めて町中をさまよった。この町は
美観を損なわぬよう、店のカンバンが控えめになっていて、何の店なのかわかりにく
い。1時間ほどさまよったが見つからず、道行く住民に聞いてみることにした。

 「ちょっとすみません。文房具店はどこですか」と英語で尋ねたが、相手に通じな
い。発音は良い方なのに。そうか、ここは英語圏じゃないのかもしれない。思い切っ
て日本語で、「ハサミで紙をチョキチョキね。このハサミが欲しいの」と言ったらな
んと通じてびっくり。「オ〜、この道をちょっと行ったところにありま〜す」と教え
てくれた。僕は「サンキュー、メルシー、グラッツィエ」と念のため3カ国語で礼を
言って別れた。

 文房具店は教えられた場所にあった。店内に入り、ボンド売場へまっしぐら。瞬間
接着剤はどこだどこだと、目を皿のようにして商品を凝視すると、あった! 赤青2
種類のアロンアルファと同形の物体を発見。手にとって説明書きを見て唖然とした。
3カ国語で表記されているのに、どれも英語ではない。いったいこれは何語なのだ。
う〜んわからん。よし両方買ってみよう。でも値段を見て驚いた。日本円で1つ千円
もするのかよ。今スイスフランは千円ちょっとしか持ってないよ〜。

 僕は2種類の接着剤を持ってレジへ向かった。店員に壊れたメガネを見せながら、
「このメガネのレンズをくっつけられるのはどっち?」と聞くと、店員はどっちも無
理だと言う。それはないだろ。どう見ても瞬間接着剤だ。「プラスチック用はどっち
?」と聞いても、店員は首を横に振るばかりである。プラスチックでは通じないのだ
ろうか。納得いかないなあ。もういいや。僕は勘で青い方を選んで購入した。

 カフェに入って、さっそく接着することにした。神様、どうかくっつきますように。
僕はメガネの割れた部分に接着剤を塗り、恐る恐るくっつけてみた。ジャ〜〜〜ン、
なんと一瞬でくっついた。しかも割れた部分がどこだったかわからないほど、見事に
くっついたのだ。ひゃほほ〜〜い。スイスの神様ありがとう。

 この後、安堵の気持ちもあって旅の快適度はぐんぐん上がり、実に楽しい旅行を送
ることが出来た。
 
▼日本でのメガネ修理

 日本に帰ってきてからすぐ、メガネを修理するために新宿東口の「カメラのSメガ
ネ館」を訪れた。壊れたレンズだけを交換すると左右のレンズの形が微妙に違ってし
まうとのことだったので、両方とも作り直すことにした。しかしこのSメガネ館が曲
者だったのだ。
 
 僕の目は乱視が強いため乱視矯正レンズを購入したのだが、乱視用レンズは上下左
右の位置が正確でないと、歪んで見えてしまう。レンズの角度が2〜3ミリずれてし
まうだけできちんと見えなくなってしまうのだ。Sで作ったメガネは乱視の角度が大
幅にずれていた。しかも驚いたことに、乱視の角度のズレについていくら説明しても、
理解できる従業員が1人もいなかったのである。

 僕は何度もレンズの角度がずれていてきちんと見えないことを説明した。従業員は
僕のカルテを見ながら、「でもレンズの度数はお客様の目にちゃんと合ってますよ」
と譲らない。「だから度数が問題なのではなくて、乱視の角度がずれていることが問
題なんです」と言っても、相手はわけがわからないという顔で溜息をつくばかりであ
る。挙げ句の果てに「いったいどうしてほしいの」とタメ口をきかれて、僕は愕然と
してしまった。

 「とにかくもう一度僕の目を検査をして下さい。レンズの角度が目に合っていない
ことがわかりますから」 店員は渋々、検査室に連絡をして、ようやく再検査の運び
となった。再検査後、白衣を着た検査員が言った。

「このメガネは全く問題ありませんね。お客様の視力にピッタリ合ってます」

「だからさっきから僕が言ってるのはレンズの度数のことじゃないんです。レンズの
角度がずれているんです。こうしてレンズを20度ほど傾けたところで、やっと僕の
目にピッタリ合うんです。だからレンズの上下左右が20度程ずれていて、僕の目に
は合っていないんですよ」 

「そんなこと言われてもねえ。度数は合ってますしねえ」

「だれか他に乱視のことがわかる人はいないんですか。これじゃ話にならない」

 白衣の検査員はまるで僕が難癖をつけているような下げずんだ目で言った。

「じゃ、3階へ行って下さい。そこでも同じ事を言われると思いますけどね」

 僕はこの時点ですでに諦めかけていた。何度同じ説明をしたって誰もわかってくれ
ない。ひどい店で購入してしまった自分の見る目の無さと、従業員の理解力の無さに
落ち込んでしまった。それでも言われたとおりに3階へ行った。3階はメガネ修理の
フロアである。

 おれはメガネの修理をしたいんじゃない!と憤ったが、もうどうにでもなれ、とい
う気持ちになり、従業員にメガネを渡した。従業員はメガネを機械に入れて覗き、次
の瞬間、言った。

「あららら、こりゃダメだ。レンズの角度が相当ズレてますね」

 ああよかった、やっとわかってくれる人が現れた。と、ほっと胸を撫で下ろしたの
も束の間、彼はもの凄いことを言い始めた。

「お客さん、こんな店でメガネを作っちゃだめですよ。ここはメガネやコンタクトの
専門知識がある人なんて1人もいないんだから。メガネはメガネ屋で買わなくちゃね。
安売り屋はダメ」

「そそそうなんですか」 僕はビックリした。Sメガネ館の店員が自分の店を批判し
ている。

「僕はこの店に転職したばっかりだけど、今まではメガネ店で働いてたんですよ。そ
の時はみんなでディスカウントショップはメガネ屋じゃないって言ってましたからね。
転職した理由だってこっちの方が休みが多いから移っただけで、ここは給料は安いん
ですよ。」

 へえ、そうなんだ、と業界裏話フェチの僕は興味深く彼の話を聞いたものの、じゃ
何でそんなにバカにしてたディスカウントショップへ転職したんだろう、と疑問を持
った。彼は話を続けた。

「この店でメガネの専門知識があるのは僕だけでしょうね。他の人達は白衣を着てる
だけで、誰も何も知りませんよ。それで簡単なことでも、自分で解決できないからす
ぐに僕の方に回すんですよ。こんなこともわからないのって、もうびっくりですよ。

 お客さん、いいですか。次回からメガネは必ずメガネ店で買って下さい。それから、
このメガネですが、レンズの角度をきちんと指示してもう一度作りますから、もう少
々お待ち下さい。それで、もしまた調子が悪かったら、直接僕のところへ持ってきて
下さい。まあ僕もいつまでここにいるかわかりませんけどね」

 それから一週間後、出来上がってきたメガネは僕の目にピッタリと合った。擦った
揉んだの挙げ句、やっとメガネが完成してホッとした。

 その後、予備のメガネは某有名メガネ店で作ったのだが、一発でバシッと目に合っ
た。そもそもこれが当たり前なのだろうが、Sメガネ店での悶着の後なので、すこぶ
る嬉しかった。今後は絶対にディスカウントショップではメガネを買わないぞ、と心
に誓った。 <END>