■ 僕の勉強法
先日、行きつけのパン屋で大きめのフランスパンを買って、8枚切りにスライスして
もらった。愛想の良い50歳くらいの女性店員さんが、ニコニコしながらスライスした
パンをこちらに見せ、そして言った。「このようにカットしましたが、大丈夫ですか?」
「(チクッ!)は、はい」
その後、いつもの温泉へ行き、受付で回数券を購入した。愛想の良い40歳くらいの受
付嬢が言った。「回数券は封筒にお入れしますか?」
「いいえ、結構です」
「大丈夫ですか?」
「(チクッ!)は、はい」
一度温泉に入った後、岩盤湯の順番を待っていると、係がやってきて入浴前の説明を
始めた。「お客様の中で岩盤湯が初めての方はいらっしゃいますか」
(シーーン)
「大丈夫ですか?」
「(チクッ!むむむ……)」
とまあ、この日は短時間に3回連続で「大丈夫ですか?」の洗礼を受けた。まったく
頭にくる。2月6日の日記にも書いたが、巷の店では相変わらず無意味な「大丈夫ですか?」を数
多く聞くことができる。意味をなさない「大丈夫ですか?」を聞かされるたびに、針
でチクッと刺されたような痛みが心に走る。いつも不愉快な気分になる。店員さんはお客を気遣って「大丈夫ですか?」と言っているつもりになっている。一
言添えることが、相手を気遣う良い言葉だと思っているのだろう。「大丈夫ですか?」
が無意味な言葉で、時おりお客を傷つけているなどとは、これっぽっちも思っていな
い。店員さんたちは、お客が「はい(yes)」と言うに決まってるとわかっているので、
「大丈夫ですか?」を安心して自信たっぷりに言う。でもこれでは自分がお客を気遣っ
ていることを知らせる、自らを飾るための言葉である。店員さんたちは、この用途における「大丈夫ですか?」が悪い言葉だと露にも思って
いないし、自分がお客の立場で相手に言われても何とも思わないのだろう。僕や他の
人たちは「大丈夫ですか?」と言われてイラっとしても、いちいち店員さんに指摘な
んかしない。だから店員さんたちの「大丈夫ですか?」はこれからも直らない。ましてやお客の立場で聞いた「大丈夫ですか?」が、気遣いのある素敵な言葉だな、
などと考える人たちが、店員さんになった際に使い始めるため、無意味な「大丈夫で
すか?」は、これからどんどん世の中に広まっていくだろう。そして近い将来、店員
言葉として日本標準となる。僕は店員さんの「大丈夫ですか?」を聞くたびに、人は人を知らず知らずのうちに傷
つける生き物なのだなぁと思ってしまう。現に僕がチクッと傷つけられていても、そ
のことを知る店員さんはひとりもいない。皆、ただ明るく楽しく働いている。そんな光景を目にするたびに、自分はのほほんと働いていてはいけない。自分で注意
しないと、僕もいつ気付かずにお客様を傷つけてしまうかもしれない。いや、もうす
でに自分で気付いていないだけで、お客様を傷つけているのかもしれない。危険だ。
自らの言動をよく振り返らなければ!、と考えてしまう。店員さんの「大丈夫ですか?」を聞くたびに思い出す。人は人をいたずらに傷つける
から傷つけてはいけない。人は人を差別するから差別してはいけない。人は自分勝手
だから自分勝手ではいけない。人は争うから争ってはいけない。法律その他でこうし
てはいけないとされていることは、人間は規制したり教えたりしないとそうなってし
まう可能性がある生き物だからなのだ、と。店員さんの「大丈夫ですか?」を聞くたびに、自分がもっと人の言葉に鈍感だったら
どんなに幸せだろうと思ったりする。毎日腹の立つことがなくなって、楽しく過ごす
ことができるのになぁと憧れてしまう。でも反対に、それでは物事が何もわかるよう
にならないじゃないか、と不安になる自分もいる。マイナスとプラスの葛藤との戦い
の始まりである。日常の些細な出来事に違和感を覚え、ああでもないこうでもないと悩みながら、自分
の考え方を構築し、真理を追究していく。これが僕の勉強法である。(2006年5月9日)
※このコラムの無断転載、無断使用を禁じます
ヤBACK