●台湾の原発


以下の文章は、1988年に休暇で台湾を旅行した際に、反原発運動について取材らしきことをしたので書きました。1989年に完成しましたが、ニフティサーブ以外のところには発表できなかった作品です。データは古いです。



 ・・・目次・・・

 1、アメリカの科学技術植民地になった台湾
 2、事故の歴史             
    −−−台湾の原発事故一覧     
 3、少数民族に押しつけられた核廃棄物  
 4、プルトニウムと核兵器の黒い雲    
 5、原発を作ると誰が得するか      
 6、反原発運動の流れ          
    −−−台湾の反原発運動団体の活動一覧 
 7、原発現地・金山の悲劇と住民の怒り   
 8、第3原発、大火事と珊瑚礁の死     
 9、第4原発の計画を延期させた人々    
 10、台湾・中国の原子力交流が始まった? 


はじめに

 1987年7月、台湾の戒厳令が解除された。第2次大戦の日本の敗北とともに、台湾の人々に復興の希望を持たせて大陸からやって来た国民党が、実は日本の軍政とさして変わらぬ腐敗した政権だということに気付いた人々を黙らせるため、1949年に敷かれた戒厳令が、戦後40年近くを経て、ようやく解除されたのだった。47年2月、物価の急騰にあえぐ民衆が、闇市を取り締まっていた警官の発砲がきっかけで怒りだし、全島の反乱につながった2・28事件が起きた。事件をきっかけに始まろうとしていた民主化運動は、大陸からの国民党の大軍の上陸によって10日余りで打ち砕かれ、人々の口は戒厳令で塞がれた。
 国際情勢が変化し、アメリカ政府も国民党政府に民主的なイメージを作るよう求めるようになり、ついに戒厳令は解除された。その後、台湾の人々は、空白の40年間を全力で埋めようとするかのような猛スピードで語り始め、それまでの不満をぶちまけ始めた。一党独裁の国民党に反対する野党勢力の相次ぐ結成。化学工場や原発の建設反対、森林保護などの環境保護運動、かつて高砂族と呼ばれていた少数民族の権利回復運動などの形をとって、急速に全島的な運動になった。それまではほとんど許されていなかった労働運動も、連戦連勝の状態だと聞いた。戒厳令の力を借りて労働者を押さえていた資本家・会社側が、戒厳令がなくなって急に自分たちの力だけで労働者と対峙しなくてはならないようになったからだと言われている。
 この本では、これらの盛り上がっている台湾の市民運動のうち、日本でも盛んになっていて興味を引きやすそうな、反原発運動について紹介する。

 台湾の原発は全てアメリカ製で、島の北端と南端に合計3ケ所の原子力発電所に6基の原子炉がある。台湾政府は台湾よりも中国に目を向けてしまったアメリカの気を引こうと、原発を買うことに踏み切った。1979年のスリーマイル原発事故の後、反原発運動のため国内に新たな原発を作ることができなくなり、第3世界への原発の売り込みに躍起になっていたアメリカの原子力産業は、渡りに船と台湾に原発を売ったのだった。
 ところが設計・建設段階でのいい加減さや、台湾の原子力技術の不足から故障や事故が跡を絶たず、それでも3つ目までの原発は問題なく建設されたものの、85年の第4原発の建設計画が、人々の堪忍袋の尾を切った。この原発は当時の台湾の国家予算の半分以上にあたる巨額だったため、値段が高すぎると国会や市民団体から反発を食らったのだった。計画は2度に渡って延期され、今に至るも着工できず、第5原発などその後に控える新しい炉の建設も、全くめどが立たない状態になってしまった。

 台湾には1987年現在、3個所の原発で6基の原子炉が動いている。またこのほかに2ケ所の原発予定地があり、台湾島の南の沖合の小島、蘭嶼(らんゆ)島には核廃棄物貯蔵場が作られ、6基の原発で使われ、放射能汚染された作業着やフィルターなどの貯蔵が進められている。これらの場所を地図で表してみた。第5原発の台西を除けば、全ての施設が島の北端か南端にかたまっている。北部の金山、石門は人口150万人の台北市から30キロしか離れていない。


   1、アメリカの科学技術植民地になった台湾

 最近、学者や野党人士、新聞記者など台北の知識人たちの間では「台湾は科学技術の面でアメリカの植民地になっている」との嘆きが聞かれる。台湾は原発に関する技術をもっていないのに、原子力発電を国家の基本政策の一つにしようとして全てをアメリカから輸入して発電を始めたものの、事故や故障が続発してしまった。アメリカの原子力産業の技術力なくしては原発を維持することができなくなってしまい、とうとうアメリカ川の言い値で新しい原発を作らねばならない植民地になってしまった、というのである。そして、そうなった原因はアメリカが、中華民国を見捨てて方向転換し、大陸の中華人民共和国政府と仲良くなってしまったことに始まる。台湾がアメリカの科学技術植民地へと歩んだ道を、ここでひもといてみることにしよう。

 台湾の原子力産業の歴史は1955年6月、政府・行政院が原子力委員会を成立させたことに始まる。国営企業である台湾電力も原子力研究委員会を作り、原子力発電に関する資料を集めだし、原子力発電所の運転などに必要な人材の教育と訓練を始め、台湾政府はアメリカとの間に「中米原子力平和利用協定」を締結し、原子力の技術を輸入し始めた。
 また台湾政府は、共産党の支配下にあった北京の清華大学を台湾に復校させるとの名目で、台北の南約60キロの新竹市に清華大学を新設し、原子力科学研究所を設けた。米国・ジェネラルエレクトリック(GE)社から実験炉を買い、原子炉の運転を始めた。
 1964年、台湾政府は原子力発電を将来的に電力供給の根幹に据えることを決めた。原発建設は国家の10大建設の一つに数えられ、原子力発電所が次と精力的に作られていく。最初の原発は風光明眉な北部海岸の浜辺、石門に69年から建設が始められ、9年後の78年に商業運転を開始し、台湾での原子力発電がスタートした。
 74年には石門から15キロ南の美しい海岸、万里郷で第2原発の建設が開始された。続いて1978年には島の最南端の恒春郷の、これまた後に国立公園に指定されるほどの風光明眉な海岸で、第3原発の建設がスタートした。

 台湾政府が原発建設のスピードを速めたのは、1971年の中国の国連加盟と台湾の脱退、72年のニクソン訪中と、急速に台湾が国際社会の中で孤立していくことに対し、アメリカから武器や原発を買うことでアメリカとの関係を保とうとしたからである。
 台湾はエネルギー源の多くを石油の輸入に頼っていたが、70年代の2度にわたる石油ショックで、当時はまだ夢のエネルギーと思われていた原子力発電が注目され始め、特に原発プラントの輸入が国策として浮上してきた。
 中国共産党に負けて台湾島に撤退して以来、一貫して国民党政府を守ってくれていたアメリカが、中国の開放政策に吸い寄せられるように、敵だったはずの共産党政権と接近していくのを見るのは、共産主義を極度に嫌う国民党にとって、この上もない脅威だった。78年暮れに予定されていた国会選挙が、米中が国交を樹立するとの見通しから混乱を避ける名目で、蒋経国総統が自分に与えられていた「緊急処分権」を発動して選挙を」延期させたことを見ても、アメリカとの国交断絶が台湾政府にとって大変なショックだったことが分かる。

 台湾政府はアメリカから断交させられた直後から、あらゆる外交ルートを通じてアメリカの原子力産業の関係者に対し、原発プラントを売ってくれるよう頼み込んだ。台湾の立場を代弁してくれる企業やロビイストに多額の宣伝費を出したと言われる。
 結局、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官ら政府高官を通じてアメリカの政界に大きな力を持ち、原発建設や大規模な土木工事を手掛けてきたアメリカ建設業界の最大手、ベクテル社が台湾への原発プラント輸出を引き受けた。ベクテル社は日本では関西新空港の建設にも参入している。シュルツ氏はニクソン政権の労働長官を務めた後、75年から82年までベクテル社の社長を務め、その後、国務長官になった。ワインバーガー氏は同じくニクソン政権の保険教育福祉長官を務めた後、81年?にレーガン政権の国防長官になるまでの間、ベクテル社の法律顧問をしていた。
 1979年、ベクテル社は台湾の大手建設業者「中興工程社」との合弁で「泰興工程社」を作った。中興工程社はただの建設業者ではない。同社の代表は故・蒋経国総統の三男、蒋孝勇氏で、経営権は国民党中央にあると言われているが、その当りに関する発表はされていないという、曰く付きの会社である。泰興工程社の出資比率は、ベクテル社が6割、中興工程社が4割だった。
 1978年のスリーマイル島原発の事故で、米国では反原発運動がたかまり、原発プラントの製造注文の取り消しや延期が相次いだ。国内での商売ができなくなった米国の原子力産業は、台湾やフィリピン、韓国、メキシコなど第三世界の国々に原発プラントを売ることに活路を求めた。この方向転換で米・台双方の考えが合い、台湾での原発建設のスピードに拍車がかかった。
 軍事国家である台湾はさらに、原発が生み出す副産物であるプルトニウムから水爆を作り出す可能性も手に入れることができ、台湾政府にとって原発は電気ばかりでなく、武器や外交面の安泰ももたらしてくれるはずだった。
 このように台湾の原発建設は、外交政策として行われたため、第4原発の建設をめぐる国会審議の際も、質問に答える台湾電力社長は外務省の意向を確かめてからでないと答弁ができなかった。
 台湾への原発導入をめぐるかけ引きは、こうして米・台双方の要求を満たすものになるはずだったが、話はそううまくは行かなかった。プルトニウムの軍事利用は後で述べるように、技術不足とIAEA(国際原子力機関)やCIAの監視のためにうまく行かなかった。
 アメリカに対し自ら身を投げ出すような、原発を使った外交政策も、アメリカの政策を何ら変えることはなかった。逆に原発についての技術をほとんど持たなかった台湾は、原発導入でアメリカにコントロールされる度合いを強めてしまった。原発に関する予算は増え、毎年連続して計上されるようになった。
 台湾政府はGE、ウェスティングハウス(WH)、ベクテルなどの米国企業の決定に異議をはさむことができなくなった。85年にはGE社の設計ミスから第3原発で大火事があったが、火事の後の交渉では、GE社に対して賠償請求さえも切り出せなかった。
 またアメリカの原子力産業の二大企業の両方からプラントを購入できるように原子炉と発電機の組み合わせを配慮している。GE社から原子炉を買う場合は発電機をWH社から買い、WH社から原子炉を買ったら発電機はGE社から買うのである。
 日本でも原子力産業全体を発展させるため、各電力会社は日立と三菱から交互にプラントを購入するように、台湾ではアメリカの原子力産業の発展に貢献できるように購入計画が進められているのだ。
 台湾には今のところ、原子力発電所の部品を作る技術はなく、部品は全てアメリカからの輸入に頼っているが、その価格は国際市場の価格よりはるかに高い。原発を設計するアメリカの技師は建設現場を十分に下見せず、台湾側から提出された資料を基に設計するため、実際に建設してみるとうまく行かず、設計図の引き直しや部品が無駄になることが相次ぐ。その結果、建設にかかる実際の費用は、最終的には政府が立てた予算の2〜3倍にもなってしまう。
 原発は外債を発行して買うが、この外債はアメリカの輸出入銀行がまとめて買い、利息はかなり高い。借りた金は原発が運転を開始し、電力料金が入り始めてから返すことになっているが、この間の利息は台湾電力ではなく政府が支払う。
 この方法で輸出入銀行は台湾政府に、原発を買うための金を81年までに12億ドル以上も貸した。これは輸出入銀行の全貸付高の5.7%に当り、最も大口の貸付先である。台湾は対米貿易の黒字から、原発を買う位のドルを持っていたにもかかわらず、アメリカへのリップサービスから輸出入銀行から借りることにしたのだった。
 台湾の原発の電力コストは火力、水力より安いという調査結果が出ているが、コスト計算の中にはこの利息は入っていない。ちなみに核廃棄物処理のコストも入っていない。

 このようにして1984年までに3つの原発で運転が開始された。台湾電力は84年、台北県貢寮郷塩寮に第四原子力発電所を作る計画を提出した。1993年と94年に100万キロワットの第1、第2号炉を作る計画である。しかしその予算が台湾の年間国家予算の半分以上に当る1800億元という巨額で、経済的に引き合わないと国会議員らが反対した。
 政府は国会の承認を得る前に、第4原発の用地を確保し、基礎工事まで進めてしまっていた。無断で工事を進めたことが発覚すると反対運動は激しくなり、環境破壊に対する懸念も大きくなったため全島に広がった。
 81年末に行われた第4原発建設工事の第1回入札の際は、フランスのフラマトム社が最も安い価格を入札したにもかかわらず、最終的にはフラトム社の2倍近い価格を入札したアメリカの「燃焼工程社?」が落札している。政府は決定後に国会に事後承認を求めたが、予想に反して予算は認められなかったのだった。

 台湾電力はさらに、島の西海岸中部の雲林県台西郷に第5原子力発電所を作り、西暦2000年までに第1、第2発電所に4基、第3、第4、第5発電所には6基の原子炉を設け、台湾島内に合わせて26基の原子炉を建てる計画を持っているが、第4原発の計画が進まないため、第5原発や他の原発の原子炉の増設は手付かずのままである。
 87年末の台湾電力の発電所の総容量は1660万キロワットで、そのうち原子力は31%の510万キロワットを占める。水力は15%、火力は54%である。しかし原子力は発電の基礎部分とされているため、電力消費量の少ないときは原子力から使うようにしている。このため87年末の実際の発電量に占める割合は原子力が49%、水力は11%、火力は41%と原子力の割合が多くなっている。
 西暦2000年には台湾の電力容量の構成を原子力51%、水力9%、火力40%とする計画である。ちなみに1945年には水力が80%だったのに対し、原子力はゼロであった。原発に詳しい台湾大学物理系の張国龍教授は「環境への影響が最も少ない水力発電を軽視して減らし、代わりに環境に大きな衝撃を与える可能性のある原子力を増やすという電力政策は環境保護の考えに反した政策だ」と主張している。

 また「原発建設をめぐる台湾の現状は、戦前の中国大陸での列強の鉄道建設の時と同じだ」と主張する人もいる。中国は鉄道を建設するだけの技術がなく、列強の言い値で建設せざるを得ず、列強が予算をオーバーしても清国政府は払わざるを得なかった歴史と、原発の技術がないため、アメリカの企業の言い値を払わざるを得ない台湾政府の現状とが、全く変わっていないことを指摘している。

 フィリピンではマルコス政権時代に建てられたものの、地下に地震を起こす地層があるのが分かって運転しないまま破棄されたバターン原発に関し88年10月、アキノ政権がWH社を相手に、設計ミスの損害賠償を求めることを決めた。アメリカの原子力産業の第三世界への原発輸出は、設計のいい加減さがあちこちで露呈し出し、失敗が目立ち始めた。
 台湾政府も、地元住民や市民運動の反対を受け、第4原発の建設を続けることは難しく、蘭嶼島の核廃棄物貯蔵場の拡張、永久貯蔵施設への変更は、地元のヤミ族だけでなく、蘭嶼島を国立公園に指定しようとしている政府の別の部署も反対し、八方塞がりの状態にある。                   
 しかし急速に進む民主化は、台湾製品の安さによる対台貿易赤字を減らそうとしているアメリカの考えによるものだという見方もある。アメリカは台湾製品の価格を上げるため、台湾の低い賃金や生活水準を引き上げようとして、国民党政府に運動を弾圧しないよう圧力をかけており、何年かたってある程度賃金が上がれば、アメリカは台湾政府に対する圧力をゆるめ、再び大弾圧が起こるかも知れない、といった懸念がある。
 1947年の2.28事件の後のように、再び民主化運動は、圧倒的な軍事力を持つ国民党政府の力に弾圧されてしまうのか、原発を廃炉にさせ、アメリカの原子力産業の世界戦略は打ち砕かれ、台湾の政府は民主化されていくのか、成り行きが注目されている。

◎台湾の原子力発電所一覧

       第1原子力発電所 第2原子力発電所 第3原子力発電所
         石門郷乾華   萬里郷国聖    恒春郷南湾

 原 子 炉   沸騰水型     沸騰水型    加圧水型
       636万KW・2基 985万KW・2基 951万KW・2基

  炉の購入先 ジェネラル・エレクトリック  ジェネラル・エレクトリック  ウエスティングハウス
発電機の購入先 ウエスティングハウス    ウエスティングハウス   ジェネラル・エレクトリック

 建設開始時期 1971(1号炉) 1974     1978
        1972(2号炉)

 商業運転の  1978(1号炉) 1981(1号炉) 1984(1号炉)
   開始時期 1979(2号炉) 1983(2号炉) 1985(2号炉)

 建設予算   127億元     220億元     358億元
実際の建設費  296億元     630億元     974億元

 炉の数/現在  2         2         2
  /最終計画  4         4         4


          第4原子力発電所  第5原子力発電所
            貢寮郷塩寮     台西郷

  原 子 炉       ?        ?

  炉の購入先    燃焼工程社?      ?
 発電機の購入先

 建設開始時期     延期中        ?

 商業運転の    1993(1号炉)  2000(1号炉)
 開始予定時期    1994(2号炉)

 建設予算     1800億元       ?
 実際の建設費    296億元       ?

 炉の数/現在      −         −
   /最終計画     6         6



  2、事故の歴史  

 台湾の原子力発電所は1978年の第1発電所の運転開始以来、明らかになったものだけでも20件以上の事故を起こしている。ここでは台湾大学の張国龍教授の研究や新聞報道などを元に主な事故について説明する。
 事故の第1号は、第1原発が運転を始めて間もなくの78年10月、放射能漏れを起こした事故で、アメリカの会社が応急修理して改善されるまで1ケ月かかった。この後80年の8月から9月にかけては第1原発の冷却水の取水口が2度にわたり海上を漂うゴミで塞がれた。循環ポンプの入口の網などが詰まり、冷却水の供給が止まり、機械の保護膜が破裂した。
 これまでに最も大きな騒ぎになった事故は、85年7月7日の第3原発1号炉の大火災だろう。タービンを設計したアメリカの技術者が設計上の誤りに気付かなかったことが火事の原因だった。修理して正常運転を始めるまで1年2ケ月の間運転を停止し、70億元以上の大きな損害をもたらした。台湾政府は設計責任を持つアメリカの会社と交渉したものの、賠償金をもらえなかった。台湾は国際的に孤立しつつあるという弱みをアメリカに握られているため、アメリカの企業に文句を言って賠償金を取ることはできなかったのだった。
 88年4月には第2原発2号機で大量の放射能が大気中に漏れ出した。原子炉の水位が下がったにもかかわらず、炉を取り囲む緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動しないようになっていたことが事故の原因だった。2号機は同年7月にも同じ装置が故障して、炉が緊急停止している。この時は発電所が事故を隠してその日のうちに原子力委員会に報告しなかったうえ、台湾電力も原子力委員会に報告せず、事故を翌日に知った原子力委員会は責任者の処罰を要求した。
 事故の中にはずさんな管理や無理な運転が原因のものも多かった。82年3月には第1原発の放射性廃棄物が石門郷のゴミ捨て場に捨てられ、放射能汚染されているのが見つかった。また84年6月には放射性廃棄物を積んだ船と漁船が金山港の外洋で接触し、廃棄物を入れたドラム缶が海に落ちる事故もあった。85年9〜10月には第1原発で連続運転の記録を作るため56日間運転し続けたことが原因で、放射能を大気中に流し続ける事件が起こり、その後長期の運転停止を引き起した。87年4月に原子力委員会が原発を査察した際には第2、第3原発の作業員が眠りこんで巡回を怠ったのが見つかって処分を受けた。88年3月には第3原発で放射性物質(コバルト)の固まり2つが盗まれてしまった。
 88年2月、台湾電力の技術者、チャン・ルーイー(如意)氏が、第1原発の熱交換機の銅細管が、完全に放射能除去されないまま市場に流れていたことを明らかにした。 氏自身も放射能除去の作業中、銅細管から出た粉塵で肺を被爆している。
 銅細管は腐食しやすく、耐用年数が短いため、台湾電力は86年に第1原発の熱交換機の細管を寿命の長いチタン合金の細管に取り替えた。取り替えられて使い終わった約8万本の銅細管は台湾電力の製錬所で溶かされて約960トンの銅となり、市場に出回った。台湾電力は下請け作業員を使い、一年半かけて16000本の銅細管の放射能を除去したが、残る6万本以上の銅細管の放射能除去をしないまま、製錬所へ送ってしまったのだった。
 チャン氏の告発は、88年1月に政府の報道規制が解除されたばかりのマスコミを通じて台湾じゅうに知れ渡り、同年3月の金山や台北でのデモや集会など、その後の反原発運動につながった。
 作業中などに被爆した人も多い。82年1月には第1原発の作業員1人が原子炉を修理中に転落してけがをし、大量の放射能を浴びて3日後に死亡した。6年後の88年に埋葬されたが、その時まで彼の身体は全く腐らなかったという。84年8月には第1原発の飲料水製造機にセシウム137が投げ込まれ、7人が被爆する事件も起きた。84年10月には第3原発で雇われた3人の作業員が冷却水の排水口で潜水して清掃した後、次々と発病して原因不明のまま数日間で全員が死んでしまった。
 発電所ぐるみで事故隠しが行われたとしか思えないエピソードもある。 86年1月、第1原発で放射能が漏れる事故があり、発電所の全員が避難した。事故の後、原子力委員会が原因を調べようとしたところ、委員会が前もって発電所の周りに設置してあった放射能測定機は全て故障していた。当日の運転記録もなくなっており、捜したところ当日の部分が破り取られた形で見つかっている。
 88年5月には第2原発1号機の大修理中、放射能の安全防護が不十分で約200人もの作業員が放射能汚染を受け、発電所の外の土も汚染されるという大事故が発生している。
 発電所からの温排水による周辺海域の環境破壊も起きている。特に第3原発の近海の珊瑚は世界的にも保存状態がよいと言われていたにもかかわらず、温排水の影響で86年7月には排水口付近の海域で大量の珊瑚が白く変色して死んでいるのが発見された。88年には台湾電力は探査船を購入して周辺海域の自然を調査し「周辺海域の自然は豊富である」との結果を出したが、珊瑚については以前より悪い状況で、発電所付近の浅い湾の珊瑚礁のうち半分が白く変色していることが分かり、珊瑚礁の破壊を危惧する声が強くなっている。台湾電力は約4億元かけて周辺海域の浄化作業を始めたにもかかわらず、88年7月には周辺海域で、発電所から流れ出たと見られる油によって水面が汚され、大量の魚が死んでいるのが見つかっている。
 88年7月、国際原子力機関の国際原子力安全顧問委員会のメンバーでアメリカ、日本、フランス、西ドイツの計7人の原子力の専門家が原子力委員会の招待を受け、台湾の3つの原発を視察、運転や管理の状態の安全性について調査した。7人は台湾の原発について、世界的にみれば台湾の原発の管理、運営のレベルはABCDの評価で言うと、「B」か「Bの下」である、との評価を下した。
 また88年3月には台湾電力の幹部と金山、萬里の町長が話し合い、第2原発周辺の住民に対して毎月100KWH分の電気料を4月から免除する取り決めをしたが、台湾電力が7月になってもそれを実施しなかったため住民や町長が怒りだし、5、6月分の電気料の不払い運動をおこすといった事件もあった。また台湾は日本と同じく地震が多発する地域で、今後は地震による事故の可能性もある。                   

◎台湾の原発事故一覧

 1978年10月:第1原発から気体の放射能が漏れだし、アメリカの会社が応急修理して改善されるまで1ケ月かかった。

 1980年8月19日:第1原発の冷却水取水口が海上を漂うゴミで塞がれる。循環ポンプの入口の網と集水器の水槽が詰まり、冷却水の供給が止まる。

 1980年8月27日:第1原発の冷却水取水口が再びゴミで塞がれる。今回はさらに重大で、低圧タービンの保護膜が破れる。

 1982年1月7日:第1原発の作業員、欧萬居さんが原子炉を修理中に転落してけがをし、大量の放射能を浴びて3日後に死亡した。6年後に埋葬したが、その時まで彼の身体は全く腐らなかった。

 1982年2月23日:第2原発で4人の作業員が放射性廃棄物処理系統の修理、検査をしている時、汚染物を身体に浴び、2〜7レムの放射能を浴びた。

 1982年3月:第1原発の放射性廃棄物が台北県石門郷のゴミ捨て場に捨てられ、ゴミ捨て場が放射能汚染されているのが見つかる。

 1983年2月23日:第2原発2号機の原子炉に海水が入り込み、炉が停止する
 1984年6月:放射性廃棄物を積んだ船と漁船が金山港の外洋で接触し、廃棄物を入れたドラム缶が海に落ちる。

 1984年8月7日:第1原発の飲料水製造機にセシウム137が入れられ、水を飲んだ7人の作業員が被爆する。

 1984年10月:第3原発の龍興旺さんら3人の作業員が冷却水の排水口で潜水して清掃した後、次々と発病し、死因不明のまま数日間で相次いで死んだ。

 1985年7月7日:第3原発1号炉で大火災が発生。修理して正常運転を始めるまで1年2ケ月間運転を停止し、一日当り一千万元の損失をもたらした。
                  
 1985年9〜10月:第1原発で連続運転の記録を作るため56日間運転し続けたため、放射能を大気中に流し続ける事件が起こり、その後長期の運転停止を引き起こす。

 1986年1月15日:第1原発で大規模な放射能漏れがあり、発電所の全員が避難する。原子力委員会が発電所近くに設置してあった測定器は全て故障していた。事故の後、委員会が調査しようとしたところ、当時の作業日誌がなくなっており、捜したところ重要な部分が破り取られた形で見つかった。

 1986年3月25日:第1原発2号炉が418日間連続運転して世界記録を作った。しかし記録を作るため、運転を止めて行うべき修理を運転したまま行っていた。

 1986年4月29日:第2原発で二酸化炭素が漏れだし、9人の作業員が中毒にかかる。

 1986年6月17日:第2原発1号炉でモーターが焼ける。

 1986年7月2日:第2原発2号炉で放電事故があり、作業員2人が火花で火傷する。

 1986年7月:第2原発で2件の火災が起こり、台湾電力は事故を隠そうとしたが、新聞にすっぱ抜かれる。

 1986年7月:第3原発の排水口付近の海域で大量の珊瑚が白化、死亡しているのが分かる。

 1986年10月22日:第3原発で4人の作業員が間違って高放射能地区に入ってしまう。

 1987年4月11日:第2、第3原発の作業員が眠りこんで巡回を怠ったのが見つかる。

 1987年10月7日:第3原発1号機の蒸気発生機のタービンの翼で裂け目が見つかる。                     

 1987年10月26日:第2原発で台風のためタービンに水が入り、炉が2つとも緊急停止する。水がしみ込み、状況は翌年になっても改善されなかった。
                      
 1986年11月:第3原発で何回かに渡り、放射能汚染された排水が規則に反して流される。

 1988年2月:第1原発1号炉で停止期間不足のまま運転を再開していたことが分かる。

 1988年3月:第1原発の作業員 如意氏が、熱交換器の細管の侮ヒ能を除く作業中に放射能を含んだ粉塵で被爆したことを自ら発表する。

 1988年3月:第3原発で2つのコバルトが盗まれたのが発覚する。

 1988年3月22日:台湾電力が「84年4月から88年3月までの、原発から大気中への放射能漏れ事故は第1原発が117件、第2原発が51件、第3原発は106件である」と発表する。

 1988年4月:第2原発の800人余りの作業員の健康診断をしたところ、全体の17.5%の人に肺疾患が起きていることが分かる。

 1988年5月12日:第2原発1号機の大修理中、放射能の安全防護が不十分で、約200人の作業員が放射能汚染を受け、発電所の外の土も汚染される。

 1988年5月27日:第2原発で2酸化炭素の自動噴出器が誤作動し、3人の作業員が中毒にかかる。

 1988年7月:第3原発付近の浅い湾の珊瑚礁のうち半分が白化現象を起こし、前年より悪い状況になっていることが分かる。


  3、少数民族に押しつけられた放射性廃棄物

 台湾にある6基の原発は毎年、原発内で使い終わった作業服や手袋などの低レベル放射性廃棄物を詰めたドラム缶約1万本を生み出す。また、100万キロワットの原発は1基あたり1年間に30トンの使用ずみ核燃料(原子炉で燃やしたウランのかす。レベルの高い放射性廃棄物)を出すと言われており、台湾の原発全てがフルに運転すると約500万キロワットの出力だから、台湾では毎年150トンの使用済み核燃料が作られている計算になる。
 低レベル放射性廃棄物は、ドラム缶が壊れて周囲に放射能が漏れたりしないよう気を付けながら保管しなくてはならない。また使用済み核燃料は強い放射能と高熱を発し、何年間もの間、放射能を漏らさずに冷やし続けなければならない。この膨大で厄介な核のゴミをどう処理するかが、原発を持つ国の政府が抱える頭の痛い問題だ。
 特に台湾では、低レベル廃棄物の処理技術が進んでいないため、体積を十分に圧縮できず、1000キロワットの発電当り1年間に1.7立方メートルと、スイスで処理されている放射性廃棄物の約10倍の大きさになってしまうという弱点もある。
 核のごみの処理方法に困り切った政府・原子力委員会は考えあぐねたあげく、放射能の強い使用済み核燃料については、発電所内に貯めておくことにした。発電所には燃料棒を一時貯めておく深いプールがあるが、そこにずっと貯めておこうというのである。だから建前上は、使用済み核燃料の原発内の水槽への貯蔵は、仮の措置ということになっている。水槽は大体10年間分の貯蔵容量しかない。今後は水槽を広げ、容量を増やして対応するしか方法がなく、台湾電力、原子力委員会とも今のところまだ最終処理に関しては方法を見つけていない。
 低レベル廃棄物に関しては、台湾本島に比べ人口密度が比較的低いうえ、住民のほとんどが少数民族のヤミ族で、漢民族に危険が及びにくい台湾島の南東沖合の小島、蘭嶼島に核のゴミ捨て場、つまり低レベル廃棄物処理場を作る「蘭嶼計画」だった。
原子力委員会は74年「蘭嶼計画技術委員会」を結成して放射性廃棄物貯蔵場の計画を始めた。貯蔵場は80年に建設が始まり、82年から貯蔵を始めた。それ以来、低レベル廃棄物は発電所内で集められた後、船で蘭嶼島の貯蔵場の専用埠頭へ運ばれている。1984年6月、金山の港の外で、廃棄物を積んだ運搬船と漁船が接触して廃棄物のドラム缶の一部が海に落ちる事故が起きたが、この運搬船は第2原発から出た低レベル廃棄物を、蘭嶼島に運ぶ途中だった。

 ヤミ族は、漢民族が16世紀ごろ台湾にやってくる以前から蘭嶼島に代々住んでいた。現在は、島には約3000人のヤミ族が住んでおり、観光業などに携わる少数の漢民族を除く、島の人口のほとんどを占めている。ヤミ族はマレー、ポリネシア系の民族で、漁業と狩猟を中心とした生活を送ってきた。自然の豊かな島で、昔と変わらない簡単な家に住み、昔ながらの生活を続けているヤミ族が多いため「現代の桃源境」とも呼ばれているが、現金収入を求めて台湾本島に出稼ぎに出る人も多くなっている。
 台湾の原子力委員会が廃棄物の問題に取り組み出したのは71年、第1原発を建設し始めた翌年のこと。廃棄物の処理に関していくつかの方法が考えられたが、地質が安定している岩塩や加工岩などの廃鉱の穴に詰めるという、ヨーロッパで行われているやり方は、台湾には適した場所がなくて使えず、欧米や日本がかつて行っていた海洋投棄する方法は、70年のロンドン海洋会議で全面的に禁止されてしまった。
 また使用済み核燃料をアメリカに運んで処理してもらうやり方も以前は有望だったが、アメリカでの反原発運動の昂まりによって多くの港や内陸の州が、放射性廃棄物の入港や州内の運搬を禁止するようになり、道は閉ざされた。
 そこで登場したのが「蘭嶼計画」である。政府にとって都合の良いことに、棄物貯蔵場の建設予定地である蘭嶼島の南端の龍門地区は軍用地で、政府内部の調整のみで用地が確保できた。ちなみに龍門地区は、ヤミ族がフィリピンのバターン島のほうから移住してきた際、初めて島に上陸したと伝えられている場所で、日本で言う高天原である。蘭嶼計画は軍事機密とされたため、当初、ヤミ族の人々は建設について何も知らされず、人々が建設に気付いた後、原子力委員会は「缶詰め工場を作る」との嘘の説明をした。廃棄物を運搬する船の専用埠頭は、新しい漁港を作ると称して建設が進められた。建設に関して30回に及ぶ会議や討論会が開かれたが、集められたのは漢民族だけだった。「缶詰め工場と新しい漁港」は蘭嶼島を繁栄させるとして多くのヤミ族に歓迎され、討論会への参加を望む声はヤミ族からは出なかった。ほとんどのヤミ族の人々は廃棄物の施設が作られ、貯蔵が始まって初めて、何が作られたか知ったのだった。

 この、廃棄物貯蔵場ができるまでのだましのエピソードは、台湾の少数民族全体が漢民族の権力者たちに欺かれてきた歴史と、根が同じである。ここで台湾の少数民族について少し説明しよう。
 台湾の少数民族は9つある。蘭嶼島に住むヤミ族、台東から花蓮までの東海岸沿いに住むアミ族、台東の南に住むピュマ、ルカイ、パイワン族、台北の南の山岳地帯に住むアタイヤル、サイセット、その南に住むブヌン、ツオウの各民族である。
 9つともマレー、ポリネシア系の民族だが、長い間各民族がばらばらに住んできたので、言葉は民族ごとに全て異なり、お互いにはほとんど通じない。核民族ともフィリピンから船で渡ってきて台湾に住み始めたと考えられているが、その起源ははっきりしない。
 漢民族が台湾に移住し始める16世紀頃から、少数民族は次第に、住んでいた土地を漢民族に取られるようになった。現在では9民族合わせて33万人ほどの人口と言われている(確実な統計資料は発表されていない)。遠洋漁業の乗組員や、炭坑や工場で働く人が多く、生活水準が低い。遠洋漁業の乗組員はフィリピンや日本の領海で操業させられて拿捕、抑留されたものの、水産会社が保釈金を出さないため、何年も抑留されたままになっている人が数多くいる。また十代の娘に台北で売春をさせて、やっと生活している家族もある。
 こうした少数民族が直面する困難を解決しようと、84年に「台湾原住民権利促進会」が作られた。「元々は我々少数民族のものだったのに、政府が一方的に取り上げて国有地にしてしまった24万平方キロメートルの土地を帰せ」と主張する「還我土地」運動や、台北では婦人団体と協力し、幼い売春婦に別の仕事を見つける活動をしている。高雄ではキリスト教団体と協力して、フィリピンや日本の政府に抑留されている漁船の乗組員の救済活動をしている。また、新しく産まれる子供に漢民族風の名前を付けなければならない戸籍制度を変え、彼ら独自の民族名を正式の名前として認めるよう政府に働きかける運動や、国語の教科書に使われている「漢民族が野蛮な少数民族を同化した」との内容の物語を削るよう求める運動も盛んだ。
 このような中で、蘭嶼では権利促進会のメンバーが中心になって「ヤミ族青年聯誼会」を作り、放射性廃棄物への反対運動や、台湾本島に就職していった青年の相互扶助運動をしている。私は台北で、青年聯誼会のリーダーで台北のタクシーの運転手をしている31歳の施努来さん(この名前は中国名で、民族名はシャマン・ラポアン)に会って話を聞いた。

 貯蔵場の計画は第1貯蔵場の6つの工程のうち、9万8千個を貯蔵できる第1工程が81年に完成している。6つの原発から出る低レベル廃棄物の約10年間分が貯蔵できる計算だ。計画では33万8千個を貯蔵できる第2貯蔵場の建設も考えられている。
 82年から廃棄物の貯蔵が始まったが、同年11月には原子力委員会から蘭嶼郷町役場の新庁舎建設費として3千万元(89年1月現在のレートで1億5千万円)が支払われ、翌83年には蘭嶼保健所に50万元の医療機器が提供された。また政府によって道路や小・中学校も新設された。島じゅうに電気が供給され、飛行場も修繕された。島の有力者たちを日本の原発への見学旅行に招待し、日本を旅行させて接待することも行われた。
 これらの「恩恵」にもかかわらず、島では龍門地区の人々を中心に貯蔵場への反対運動が起きた。ヤミ族が反対したのは一つには自分たちの伝統的なライフスタイルを捨てて「恩恵」によって得られる現代的な生活をする必要を感じなかったからで、台湾本島の反原発運動から放射能の危険さを知ったことも反対運動に結び付いた。
 88年2月、施さんらヤミ族青年聯誼会を中心とする約300人が始めての反対運動をした。「ヤミ族は廃棄物貯蔵場の建設に同意していない」と、貯蔵場の撤廃を求め、貯蔵場をヤミ族の物語の悪霊に見立てて「蘭嶼から悪霊を駆逐する」と銘打ったデモ行進と集会を行ったのだった。施さんらは「蘭嶼は医療機関が少なく、重病・急病人は本島の台東の病院に飛行機で送るしかない。万一貯蔵場で大事故があって被爆者が出たら、誰が診察するのか。放射能で死んだら誰が責任を取ってくれるのか」と主張した。
 施さんは「金は要らない。新しい学校が作られても教えるのはヤミ族の言葉ではなく漢語で、教える内容も中国の歴史など、漢族のためのものだ。金だけ与えられていたのではヤミ族のアイデンティティーがどんどん奪われていってしまう。政府はヤミ族が知識もなく、反対運動など起きないだろうと考えて貯蔵場を蘭嶼に作ることにしたのであり、反対運動を起こさなければ、やがてもっと放射能の強い廃棄物も置かれてしまうだろう」と言う。
 政府の側は廃棄物貯蔵場への反対運動をきっかけにしたヤミ族の民族意識のたかまりに対し、島の人が満足するように「蘭嶼の歌」[蘭嶼の児童」といった題名の、民族意識の養成に役立つ小・中学校向けの教材14万元分を送った。「恩恵」の中身も変化しているのだ。
 蘭嶼島は珊瑚礁の堆積岩でできた島で、放射性廃棄物の最終貯蔵場としては使えず、建前としては仮の貯蔵場ということになっている。しかし原子力委員会は85年、蘭嶼の貯蔵場を最終処理場に変更するとの計画を打ち出した。これに対し地元の人々が猛反対し、結局政府は「最終処理場は別に作る」と発表した。しかしどこに作るかは具体的に明らかにしないまま、88年7月、原子力委員会は廃棄物貯蔵場を拡張する第2期工程の工事を開始し、合わせて蘭嶼を廃棄物の最終処理場とする計画を再び審議した。
 これに対し今度は、政府の別の部局である内政部営建暑も「蘭嶼は89年7月に、台湾で5番目の国立公園になることがすでに決まっているのだから、蘭嶼を廃棄物の最終処理場にすることはできない」と反発した。新聞報道によれば、営建署の署長は「廃棄物貯蔵場のほうが国立公園よりも先に設立されているので、貯蔵場そのものには反対しないが、国立公園になることが決まっている以上、貯蔵場の規模を拡大することは許されない。
 また最終処理場は当然、蘭嶼以外のところに作るべきだ。原発は一定期間しか使えないが、自然環境は永遠に守られなければならないうえ、いったん破壊されたらもう元には戻らない」と主張した。
 だが他方で原子力委員会がコンサルタント会社に委託して調べさせた環境影響評価は「貯蔵場はその位置から見て島の自然環境、文化、観光資源などに悪影響を及ぼすことはなく、最終処理場の候補地として上がっている台湾内の10地点のうち、蘭嶼は最も条件の良い場所だ」との結論を出している。原子力委員会は最終処理場にすることは棚上げしているものの、調査の結果を理由に貯蔵場の拡張を進めており、あつれきは強まっている。
 施さんらヤミ族は国立公園の計画にも反対している。国立公園になると狩猟や漁獲、樹木の伐採などの日常生活の活動が制限されることが反対理由だ。反対運動に対し政府・内政部は「動植物の保護を目的としたほかの国立公園と違い、蘭嶼の国立公園は蘭嶼の文化を保存することが目的だ。漁獲や船を造るための樹木の伐採は蘭嶼の文化の一部であり、国立公園になっても制限されることはない」と言っている。
  しかし施さんはそれに対し「国立公園になっても廃棄物貯蔵場はなくならない。国立公園になると島の観光業が繁盛するだろうが、蘭嶼の観光業界の90%を握っているのは漢民族だ。国立公園になってもヤミ族のためになることは何もない」と言い切る。

 「還我土地」運動は蘭嶼島でも行われている。その様子を施さんに聞いた。蘭嶼島はかつて4570平方キロメートルの島の面積のうち、耕地240平方キロメートルが退役軍人の農場だった。国民党とともに台湾にやってきた兵隊たちは台湾に土地も人脈も持たないため、引退後に生活できなくなることが多いが、こうした退役軍人に政府が農地を提供したのが退役軍人農場である。
 土地を取られたヤミ族には補償がされなかったうえ、山地が多い蘭嶼には800平方キロメートルしか農地がなく、退役軍人に与えられたのは比較的地味の肥えた農地だったことから、ヤミ族の人々は当初からこれらの農地の返還を政府に求めていた。農場の退役軍人は77年に最高人数の約100人に達したが、その後は死亡などで次第に減り、今では10人余りが残っている。持ち主の退役軍人がいなくなった農地はようやく返還されるようになり、今年5月に40平方キロメートルが返還され、今では20平方キロメートルほどが残るのみになっている。

 しかし、運動は全てうまくいっているわけではない。こんな話もある。蘭嶼島にはこれといった産業がないため、島の青年の多くは台北を初めとする台湾本島に出稼ぎにでている。施さんによると、島の人口3千人に対し、本島への出稼ぎ者は約千人で、台北、台中の機械、製靴などの工場で働いている人が多いという。施努来さんは自分たちの手で仕事を作ろうと国民党の立法委員ら35人と88年6月、「蘭嶼労働合作社」を結成した。廃棄物処理場の反対運動を通じて民族自治の精神が養われ、本島からの経済的に独立する必要を痛感した施さんらの考えで結成された。
島内の建設現場などでの仕事を請け負う計画だったが、8月になって廃棄物処理場の仕事を請け負うかどうかで施努来さんと立法委員の意見が対立した。結局、2人の青年が処理場で働き始め、合作社の計画は宙に浮いている。現在、処理場の請負作業員として働いている3人のうち、2人が合作社のメンバーということになり、彼等が「悪霊」と呼ぶ廃棄物処理場そのものが、合作社のつまづきにつながってしまった。
 困難にぶつかりながら運動を続けている、施さんらヤミ族の人々が目指しているものは何か。ずばり聞いてみた。「島の将来を支える産業は観光だ。しかし島の観光産業の90%は漢人の手に握られている。このままでは観光収入はほとんどヤミ族に入らない。将来は蘭嶼をヤミ族の自治区として、観光産業を島の主であるヤミ族の手に取り戻し、ヤミ族が自ら規則を作って観光産業を管理できるようにしなくては」と施さんは語った。


   4、プルトニウムと核兵器開発の黒い雲

 台湾には台湾電力の3基の商業用原発のほかに、清華大学と通産省(経済部)が運営している研究所の実験炉と、国防部に所属している中山科学院が69年にカナダのカナトン社(カナダ原子力公社)から買った4万キロワットの実験炉(NRX炉)がある。中山科学院の炉はインドが74年に核実験した原爆を作るためのプルトニウムを生産したのと全く同じ型のもので、年間2.6キロのプルトニウム239を生産することができる。この炉は天然のウラニウムを原料とし、重水を中性子緩衝剤として使うものだが、天然ウラニウムは原子炉を売った以上、原料も売る必要があったカナダから買い、重水はアメリカが供給した。
 この実験炉を使って台湾政府がプルトニウムを入手し、水爆を作る計画を立てているのではないかとの疑惑を、アメリカの情報機関、CIAは早くから持っていた。台湾には使用済み核燃料の中に大量に含まれているプルトニウム239を抽出する技術はなく、使用済み核燃料はたまり続けている。台湾には1990年までに、長崎に落とされた原爆700個分を作れる4トン分以上のプルトニウム239が存在することになるが、そこからプルトニウムを取り出すことはできない。プルトニウムを手にいれようとすれば、商業用原発とは別に、2つの実験炉を使うしかないのである。(日本では、東海村の実験プラントを商業用に使い、プルトニウムを抽出している)
 CIAは特に台湾が、同じく反共色の強いイスラエルと南アフリカの援助を受けて水爆製造を計画しているのではないか、との疑いを持っており、事実80年にはその計画の一部が台湾のマスコミに暴露されている。さらにその後CIAの調査で、台湾の国防部情報局の文書から、台湾はアメリカが台湾から核兵器を撤退させた74年から、自前で核兵器を作る研究を始めていたことが分かっている。
 核兵器をすでに持っている欧米諸国は、自分たちの軍事的優位を守る立場から、台湾のような第三世界の国々が核兵器を持つことを嫌う。政治的な不安定さからも第三世界には核兵器を持たせるわけにはいかず、特に極度の反共政権をもち、中華人民共和国と鋭く対立し続ける台湾に核兵器を持たせることは、危険なことだとアメリカ政府は考えていた。70年には国際原子力機関(IAEA)は核兵器がこれ以上世界に広まることを防止する国際条約(核拡散防止条約・NPT)を加盟国間で結んだ。条約の締結後、IAEAは加盟国で核兵器を新たに作る可能性のある施設に対し、テレビカメラによる監視や定期、不定機の検査、経費と人員の制限などを行っている。IAEAには台湾も条約を批准しており、核兵器の開発はIAEAの監視の目をくぐりながら行われていた。しかしIAEAの監視行動はかなり抜け道の多いものだとの見方もある。
 こそこそと、しかし着実に核兵器開発を進めていた台湾政府だったが、88年春にとうとう息の根を止められてしまった。中山科学院原子力研究所の副所長の張憲義博士が同年2月、CIAの協力で台湾からアメリカへ亡命し、台湾の核兵器開発についてCIAに通報したのだった。張博士は核兵器開発プロジェクトの中枢にいたと目される人物で、CIAがスパイとして同研究所に潜り込ませたか、CIAに買収されたのではないかと見られている。
 亡命事件の後、核拡散防止条約を批准済みの台湾政府は、当然のことながら核兵器の研究、製造について強く否定した。しかし結局台湾政府は、疑いを持ち続けていたアメリカ政府からの圧力を受けて中山科学院の実験用炉を止め、重水はアメリカ政府に回収されてしまった。台湾はこの後、核兵器の開発を進めることは難しくなったはずである。

   5、原発を作ると誰が得するか

 原発の建設は、台湾政府の外交政策の失敗から、アメリカの原子力産業に莫大な利益をもたらすようになったことはすでに述べたが、原発の建設で暴利を得る人は台湾にもいる。台湾で絶対的な力をもってきた軍人たちである。この人達の強い意見のため、外交政策としては破綻した後も、原発を建設し続ける政府の方針は変わらないのである。このあたりの事情を詳しく知るために、野党系雑誌「夏潮論壇」の1986年6月号に掲載された作品「原発の黒幕を見直す」の内容を紹介する。

 輸入された原発プラントは、台湾の業者が建設を請け負う。どの業者が請け負うかといった点で、今度は台湾内で利権の取り合いになる。第3原発の工事をめぐる利権の取り合いは、その典型だった。
 台湾南部の軍人が退役後に入る「補導委員会」は第3原発建設の知らせを聞き、建設工事に参入するため「南部労務技術サービスセンター」という会社を作り、台湾電力の工事事務所に参入を求めた。軍人の作ったこのセンターは、当然の事ながら技術も経験も不足しており、工事事務所はセンターの参入を認めなかった。すると補導委員会は軍の人脈に働きかけ、数人の大物軍人が工事事務所を訪れて台湾電力の関係者を「説得」し、サービスセンターは工事を請け負えるようになった。
 しかしサービスセンターは工事より戦争が本業の軍人が作った会社なので、工事を請け負っても自分の会社だけでは何も作れない。結局、日ごろから軍の人脈と親しくしているいくつかの企業に工事を発注し、それらの企業もまた、自分のところだけでは多くの分野にまたがる複雑な原発工事の全てを請け負うことはできず、さらに孫請けする。こうして通常でも5段階の下請け発注を経た結果、最後には土木の工事は土木だけに携わっている会社に、配管工事は配管だけを行う業者が仕事を請け負うことになる。工事の全体を見渡す役割をする者はおらず、設計ミスやいい加減な工事が見落とされがちになる。
 工事の仲介をした企業にはマージンが入る。始めに仕事を請け負うのはベクテル社と台湾の「中興工程社」の合弁で作られた「泰興工程社」であり、この会社が一番多くのマージンを取る。すでに述べたように中興工程社の代表は故・蒋経国総統の息子、蒋孝勇氏で、同社の儲けは国民党に入る。工事を2番目に請け負う人々は補導委員会の関係者などの軍人で、彼らは2番目に多くの取り分をもらう。さらにその次には、軍人と親しくしている業者がマージンを得る。
  こうして各段階で利益はどんどん剥ぎ取られ、一番下で実際に工事を請け負う会社は、ほとんど利益が出なくなってしまう。そうなるとこの会社は見つからない範囲でどんどん手抜きをするようになる。工事の全体を把握して監督する者がいないため、手抜き工事がまかり通ってしまう。また総合的な技術が足りないため、施工時の間違いからアメリカから輸入した高価な機械が壊れてしまい、工事費の増加や再発注のための工事の遅れを招いている。
 第3原発の場合、本来丈夫で滑らかでなければならない原子炉を囲む壁面が、完成して間もなく、ぼろぼろと崩れてしまった。本来このように崩れたら壁全体を作り直さなくてはならないのだが、少し手を加えて修理しただけで検査を通してしまった。どんないい加減な工事であれ、軍の偉いさんたちがやってくると、一発で完成検査が合格になってしまうのだ。
 またその壁に石鹸水を掛けると、泡がぶくぶくと発生するという。つまり本来、空気を全く通さないはずの壁面に穴が空いているわけで、炉の内部が外よりも高い気圧に保ってあるため、外から空気が入ってくるのだ。台湾のあちこちで大声で語られている「原発の安全性」はこうした実情の上に成り立つ神話なのである。

  6、反原発運動の概要

 台湾に原発が登場した1970年代は、台湾の労働集約型の加工業が急速に発展した時期であり、電力需要が増えるとともに世界的な第1次石油危機が起きた。このためアメリカなど世界各地と同様、台湾でも原子力発電が導入された。
 この時期、台湾は1949年から始まった戒厳令体制が続いており、野党勢力も政府に弾圧されたままで、マスコミも政府によって管理されていた。そのため原発に対する国民のチェック機構もなく、ほとんどの人々は原子力発電所の場所さえ知らなかった。台湾の原発建設は国民の承認を得ることなく、国家的な政策として進められていった。
 原発は一般には反対する対象というよりはむしろ、台湾が高度科学技術の時代に入ったことの象徴として歓迎され、わずかな知識人だけが欧米の出版物などを通じて原発の危険性に気づいていた。しかし戒厳令体制の中では、原発に反対する運動を作ることは不可能で、戒厳令下で生きる人々は政府の基本政策である原発推進を支持せねばならなかった。
 そのため、台湾では欧米諸国のように原発が建てられるときに地元の反対運動はなく、むしろ地元での仕事の場が増えることへの期待から、歓迎ムードの中で用地買収や建設が進められた。原発予定地周辺の住民は漁民が多く、台湾が豊かになり始めた60年代から70年代にかけての高度成長時代に、経済的恩恵を受けることが少なかったため、地元の発展のきっかけとなる原発が必要だと考えられた。安全性についての議論もなく、3つの発電所はいずれも事前の環境影響評価が行われず、原発の環境への影響についての住民に対する説明などもなかった。
 蘭嶼島の放射性廃棄物貯蔵場の建設は、軍用地の利用と「缶詰め工場と新しい漁港を作る」との嘘の説明のため、さらに順調だったことはすでに述べた。

 台湾の反原発運動の初めのきっかけは79年のアメリカ・スリーマイル島原発の事故だった。原発の技術と設備をアメリカに頼っている台湾では、この事故は大きな警鐘だったが、原子力産業に関する政策を決定する原子力委員会は、台湾の原発の安全性と原子力発電の必要性を主張するばかりで安全性に関する再検討をせず、議員や学者らから非難された。
 これ以降、台湾のマスコミは次第に原子力関係のニュースを流すようになった。それに対し台湾電力と政府は頻発する事故をできるかぎり隠したり、ごまかしたりするようになり、宣伝用パンフレットやテレビ、新聞などを使って大衆に原発の良い点のみをPRするようになった。              
 反対運動の次のきっかけになったのは85年、第4原発の建設予算案を国会で審議した時である。同年4月、政府は当時の年間予算の半分以上にあたる1800億円をかけて、島の北東部に第4原発を建設する予算案を立法院(国会)に提出した。これに対し与党・国民党を含む議員が「経済的な効率を考えるとばく大な予算に引きあわない」との反対意見を続々と出し始めた。さらに知識人らが政府に反対意見書を提出したところ、同年5月「国民の間に原発に対する疑念がある」との理由で、政府は第4原発の建設をしばらく延期すると発表した。これは台湾の歴史上初めて、重要な公共事業が全面的な反対を受けたことになった。
 さらにそれに追いうちを掛けたのが同年7月の島の南端の第3原発の大火事と、翌86年4月のソ連・チェルノブイリ原発の事故だった。この期間は政治の世界でも,86年9月の初めての野党、民主進歩党の結成を目前にして、国民党に反対する政治家、知識人たちの活動が盛んになっていた時だった。
 85年10月、再生紙で作った環境問題に関する雑誌「新環境」が創刊し、同年11月には、写真とルポルタージュで綴った社会派の月刊誌「人間」(台湾のカラー雑誌の中で最も高画質の雑誌。台湾の「ナショナル・ジオグラフィック」となることを目指している)の創刊など、環境、社会問題に関する雑誌も相次いで出され始めた。チェルノブイリ事故をきっかけに、より多くの人が反対運動に参加し、団体の数も増え続けた。

 反原発運動が起きたもう一つのきっかけは86年、西海岸の真ん中あたりの港町、鹿港(ルーカン)に誘致が予定されていた米・デュポン社の化学工場が「周辺の海や川が廃液で汚される」との住民の反対運動で、建設が中止になったこと。この成功例はその後の環境保護運動のテキストとされ、これ以降、原発の問題も環境問題の一つとして考えられるようになった。
 87年3〜4月には「新環境」を発行している新環境雑誌社が台湾で初めての反原発集会を呼びかけ、スリーマイル事故から8周年、チェルノブイリ事故から1周年を記念する集会とデモ行進が、第3原発の恒春と、第4原発予定地の塩寮で開かれた。これが台湾でのでも、集会などによる大衆的な反原発運動の先駆けとなった。
 87年7月、政府は戒厳令を解除した。それ以降は民主化運動全体が急激に盛んになり、87年だけで1600件以上の街頭運動が行われた。
 その後87年11月には全国の反原発、反公害運動などをしているグループの約五百人が集まって「台湾環境保護連盟」が結成され、台湾大学の施民信教授が会長となり、張国龍教授も参加した。同連盟のその後約半年間の奔走、助言で第1、第2原発周辺の「北海岸反核自救会」や第3原発の恒春周辺の「恒春反核団体」、第4原発予定地、塩寮の「塩寮反核自救会」など、原発周辺の地元の人々の団体が相次いで結成された。
 蘭嶼島では、それまで台湾本島に就職していった青年の相互扶助運動をしてきた、島の青年たちの組織「雅美(ヤミ族)青年聯誼会」が、それまでの運動の他に、放射性廃棄物貯蔵場に反対する運動も始めた。青年聯誼会は環境保護連盟、人間雑誌社などの支援を受け、88年2月と4月に蘭嶼と台北で、原子力委員会と台湾電力に抗議するデモ行進を行い、原子力委員会に意見書を提出した。
 同年4月には全国各地の団体が地元と台北で3日続きの反原発運動を行い、台湾電力本社前では参加者による本社ビルの包囲や、張国龍教授ら約10人の知識人による46時間のハンガーストライキが行われた。この日、台湾の反原発運動は最高潮に達した。政府は運動の盛り上がりのため、同年2月に再提出していた第4原発の建設計画を再び引っ込めた。

   近年の台湾における反原発団体の活動一覧

 1985年4月27日:高雄市鼓山二路の台湾電力高雄営業所の門の脇の壁にスプレーで「第3原発建設反対、台湾電力社長は台湾を売り渡すのをやめろ」などを意味する16文字の落書きが現れる。

 1986年10月10日:党外(野党勢力)の有志100人近くが台湾電力本社前で原子力政策に抗議する集会を開く。

 1987年3月26日:「新環境雑誌社」が企画し「人間雑誌社」「彰化県公害防治協会」など3団体と恒春郷住民が共同主催する「スリーマイルから南湾(第4原発の所在地)へ」と銘打った反原発集会が同日夜、恒春国民中学校講堂と夜市の街頭で行われた。

 1987年4月24〜26日:新環境雑誌社など20団体が共同主催して「チェルノブイリ事故1周年記念」反原発活動を行った。24日夜には台北で大演説会を行い、26日は第4原発予定地の塩寮で、集会、講演会と始めての大規模な反原発デモを行った。

 1987年9月:第4原発予定地周辺の住民で作る「塩寮地区反核自救会」が原発周辺の各町村での連続講演会を野党系政治家や学者に要請し、民意代表(国会議員)らが3回にわたり、原発に関して講演した。

 1987年9月20日:金山郷でも大型の反原発説明会を開き、住民組織「北海岸反核団体」の結成が始まる。

 1987年12月7〜8日:蘭嶼島の「ヤミ族青年聯誼会」が放射性廃棄物についての座談会を台北で開き、蘭嶼島では30人余りのヤミ族青年が蘭嶼飛行場の前で、原子力委員会の招待で日本の原発を見学するため飛行機に乗り込もうとする地元の名士たちに抗議する。

 1988年2月:春節(旧正月)前にヤミ族青年聯誼会の幹部が蘭嶼島の各村で反原発の説明会を開く。春節後、廃棄物処理場の前で始めての「蘭嶼から悪霊=放射性廃棄物を駆逐しよう」と銘打ったデモ行進を行う。

 1988年3月12日:塩寮地区の住民が第4原発の予定地で、台湾電力が贈ってきたトラック一杯分の日めくりカレンダーを台湾電力に突き返し、第4原発に反対する決意を表した。これを機に住民組織「塩寮反核自救会」を結成した。

 1988年3月26〜27日:台湾環境保護連盟など30団体が合同で「1988年反核行動」を主催、金山、塩寮、恒春でそれぞれの反核自救会が同時に反原発集会とデモ行進を行う。

 1988年4月22〜23日:ヤミ族青年聯誼会と「緑色和平工作室(グリーンピース)」が「蘭嶼貯蔵場の第2期建設予算を外せ」と主張して、立法院(国会)への陳情を行い、原子力委員会、台湾電力に対するデモ行進を行った。

 1988年4月22〜24日:反原発運動団体の代表が合同で立法院に抗議の陳情をするとともに、数百人の大学教授の原発に反対する署名を公開した。また同日から台湾電力本社前で3日間にわたり、原発に反対するハンガーストライキが行われ、24日には全国の反原発運動団体が台北に集まり、台湾電力本社を包囲してデモ行進した。

 1988年7月6〜10日:台湾大学を中心とした学生の環境保護グループ「台湾大学環保(環境保護)社」の学生が金山、萬里(金山の南隣の町)で3日間にわたる原発に関する説明会を開き、現地の人々を訪問して実地調査をした。10日には萬里地区で地元の人々が第2原発に反対してデモ行進をした。


  7、原発現地ルポ・金山の悲劇と住民の怒り

 台北県金山郷は、半農半漁と言った感じの、のどかな田舎町だ。台湾島北端に近い海沿いにあり、台北市からバスでひと山越えて約1時間のところにある、人口2万人ほどの町である。
 この町の北と南には、台湾に3つある原発のうち、2つがある。金山郷では、昨年秋から「管理がずさんで放射能を撒き散らすので、原発は運転をやめろ」と主張する運動が盛り上がっている。
 金山には、地元の反原発運動のリーダーの一人、許炎廷さんがいる。台湾に来たものの言葉が通じず、自分の中国語が予想よりはるかにつたないことにがっかりしていた私は、許さんが日本語を話せると聞き「帝国主義時代の日本人と同じじゃないか」との後ろめたさはありつつ、このあたり特有の気候だという9月の霧の日に、許さんに会いに行った。

 150年前に作られ、文化財として価値がある、と許さん自ら紹介する伝統的な煉瓦づくりの許さんの家は、金山の中心街にあった。許さんは55才。金山港で採れた魚を日本へ送る貿易を最近までしていたが、為替の関係で商売にならなくなったという。戦後も2年ほど、高専で日本語を使って学んでいたという許さんは、確実な日本語をゆっくりと話す。
 金山には16年前に日本の三井金属工業と現地資本の合弁で作られた化学工場があり、そこから流れる排水が町内を貫流する礦川を汚染するとして問題になっていた。しかし一昨年になってそれよりもっと大きい問題として持ち上がってきたのが原発による汚染だ。「1974年に最初の原発が作られたころは、工場の類だと聞かされて働き口が増えると言って喜んだ人が多かった。私も原発が危険だと知ったのは3年ほど前のことだ。本格的な運動は今年になってからだ」と許さんはいう。
 金山の反原発運動の源流は85年7月の第3原発の大火事の後、恒春で開かれた原発に関する集会で、台湾大学の張国龍教授の講演会を聞いた許さんの驚きに始まる。許さんはそれまで特に原発の危険性について深刻に考えていなかったが、この講演を聞いて「これは大変なことだ。何とかしなくては」と考えた。
 その後、環境問題を取り扱った日本の小説を読んでますます原発の危険性を感じた許さんは、張教授に金山での講演を依頼した。張教授は昨年9月に金山で講演し、町民に大きな反響をよんだ。講演会に触発され、87年12月から88年1月にかけて町民の間で討論会が開かれた。
 88年3月に第1原発で大気中への放射能漏れ事故が明らかになるとともに、前年末に植えた各種野菜の成長の速さが、以前の半分以下であることに人々が気づいた。許さんらが第2原発の周辺をガイガーカウンターで測ったところ、安全限度の30倍の放射能が検出され、金山から台北へ向かう峠越えの道から谷底に放射性廃棄物が投げ捨てられているのが見つかるという事件も起き、町の人々は大きなショックを受けた。
 第1原発でも、被爆したにもかかわらず台湾電力から保障を受けられなかった従業員、 如意氏が発電所の管理のずさんさを告発するなどの事件が相次いだ。このため金山周辺の人々は3月22日から24日にかけて、全国各地で反原発運動が起きたのにあわせ、第1原発の周辺で初めてのデモ行進を行った。
 許さんはその時の様子について「3月の集会には約1400人が参加した。参加したくても立場上参加できない人も多かったようで、このあたりの人口から考えると、ごく一部の人しか参加しなかった。台湾では国民党員にならないと役人や警察官などになれないのが実情だ。だから金山に1500人ほどいる国民党員の中には自分の考えからでなく党員になった人も多く、そういった人々は集会に出たくても出られないのだ。
  国民党員で集会に参加したのは50人ほどだった。私達は町の人々に、集会に参加できない人は代わりに、集会をやっている時に爆竹を鳴らして意思表示をしてくれ、とお願いした。集会の時は町中のいたる所で爆竹が鳴り、まるで春節(旧正月)の祭りのように賑やかだった。その時の様子から、町の大方の人が原発に反対しているのだな、と思った」と言う。
 しばらくしてもう一人のリーダー、47歳の李国昌さんやってきた。李さんは金山郷の町会議員で、プロパンガスの配達店を経営している。李さんは国民党員、一方許さんは結党以来の民主進歩党の党員である。許さんは「11人の町会議員のうち、3人が集会に参加した」と言う。李さんは「以前は金山周辺の約200人が発電所の下請けの仕事をしていた。一か月働いて3000〜5000元だった。今年に入って変わった。
 住民の反原発運動が盛んになり、台湾電力は発電所の管理の仕方や事故の発生に関する情報が反対派に伝わるのを防ぐため、地元の人々を雇うことをやめた。地元の人間は今では多くて日に5人だ。その代わりに6月ぐらいから、荷揚げや船乗りの仕事を得るために島の東海岸から基隆港に出稼ぎにきている、アミ族など少数民族の人々を下請け作業員として使うようになった。また一昨年の7月に戒厳令が解除されてから台湾全土で組合運動が盛んになった影響で下請けの賃金も上がり、1か月間に12000〜15000元もらえるようになった」と言う。
 許さんは原発付近の生態破壊について説明してくれた。「第2発電所の前面の海には最近まで粉貝という、このあたりでしか採れないハマグリの一種がたくさんいた。貝の表面が化粧品の粉のようにさらさらしていることから粉貝と名付けられた貝で、ひとつ100グラム以上になる大きなものだった。かつては1日に20〜30斤(1斤は500グラム)は採れていたのが、最近は全く採れなくなってしまった。貝の繁殖地の国聖湾のまん中に発電所の温排水の出口が作られ、周囲の海水より4〜12度も暖かい温排水が湾に広がって、貝が生きていけなくなった。
 しかも排水口の周りの海辺は生まれたばかりの貝が育つ場所だったため、被害がいっそう大きくなった。政府に保障を求めると言ったことは考えもつかないことで、貝を採って生活していた人は泣き寝入りするしかなかった。魚も激減しており、以前は年に何回か、海岸近くの人々が総出でやっていた地引き網も、ほとんど魚が採れなくなって止めてしまった」と言う。
 また台湾ではこのところ、全国的に地価が3年間に平均して5倍ほどに上昇し、台北周辺の他の地域では1坪5〜8万元になっているが、金山周辺では1.4倍ほどにしか上がらず、1坪1万5千元ほどにしかなっていない。第3原発で事故があって以来、原発周辺は危険だというイメージが強まり、土地を売って引っ越す人が増えるとともに、新しくこのあたりの土地を買う人が減ったのだという。
 李さんはガイガーカウンターを持っており、定期的に原発周辺の土地を測定している。第2原発の周りを測って通常の30倍の放射能を検出したのはそのガイガーカウンターである。
 台湾電力は最近、第1原発のとなりの土地に低レベルの放射性廃棄物を一時的に貯めておく貯蔵場を作る計画を持っており、許さんらは強く反対しているという。「彼らはヤミ族の反対運動のため蘭嶼島に廃棄物を置きにくくなり、発電所の脇に置こうとしている。いったん貯蔵場ができたら、たとえそれが仮の置場だとしても、次から次へと新しい廃棄物が出てくるんだから、そこにはいつも廃棄物が置かれていることになる。そのうちもっと放射能の強いものまで置かれてしまう」と許さんはいう。

 大体のことを質問し終わると、許さんは私を金山の南隣の萬里郷に車で連れていってくれた。私たちは萬里郷で電気屋を経営している反原発運動の若手リーダー、嘯慶勝さんの所を訪れた。年齢を聞くのを忘れたが、嘯さんは20代後半という感じ。日本の田舎町にもあるようなこじんまりとした、店と自宅が一緒になった店で、SONY、TOSHIBAや台湾のメーカーのテレビ、ビデオ、ステレオ、CDプレーヤーなどが並んでいた。
 萬里の人々は88年3月に金山の人々とともに反原発集会に参加した後、同年7月には第2原発の門の前で千人規模のデモ行進を行い、原発の運転停止や、第2原発のとなりの廃棄物貯蔵場の建設反対、全町民を対象とした健康診断などを求めた。
 嘯さんは店の奥で小さな茶椀にいれる台湾風のお茶を許さんと私にいれてくれながら、許さんと台湾語で討論し始めた。許さんによると嘯さんは、3月の集会が穏やかすぎたのではないか、と言っているという。「あの時の集会は警察の指示に従い、余り長いこと発電所の前にいなかった。嘯さんは、あんなもんじゃ効果がないだろう、これからはもっと強く運動すべきだ、と言っている。
 しかし台湾はまだ日本のように何もかもが自由になったわけじゃない。私は、逮捕者を出さないようにするには今のところあのぐらいが限度だ、と言った」と許さんは言う。嘯さんら若い人達は、徹底的に運動すべきだ、と主張し、許さんら1947年の2・28事件後の大虐殺など台湾の民主化運動がたどってきた苦難の日々を知っている年代の人は、慎重に運動を進めようとしているようだ。2人にこれからの運動の予定を聞くと、許さんは「いろいろやりたいんだが金がなくて困っている」と言う。
 許さんは金山と萬里の間にある第1発電所の南隣の空き地に連れて行ってくれた。台湾電力が廃棄物の貯蔵場を作ろうとしている土地である。高さ100メートルほどの山に三方を囲まれ、前にはかつて粉貝がいた海が広がっている。その真ん中にはテトラポットで水路が作られて温排水の排水口になっている。水路の周辺には砂浜が広がり、かつてアメリカ兵専用の海水浴場、つまり第一級の海水浴場だったという。
 空き地の南には田舎町の警察署のような二階建ての建物があり、許さんは「警察の建物と寮だ。発電所を警備するためにあそこにいるんだ」と言う。空き地の北側に2つの大きな海老茶色の箱状の建物がある。原子炉だ。原発の敷地は鉄条網の張られたフェンスで囲まれていて、鉄条網には高圧電流が流されている。通常の30倍の放射能は、原発の反対側のフェンスの脇を計ったところ、検出されたという。風は強く、どんよりとした空の下で海がうねっていた。

 台湾の反原発運動は、日本の運動から影響を受けている部分がある。許さんは日本の山崎豊子の小説を読んで影響を受けたと言うし、有吉佐和子の「複合汚染」も話題にされた。環境問題を取り扱う雑誌では、化学工場建設の反対運動と関連して、水俣病について紹介されていた。
 また当初、地元の産業発展のためになる、と歓迎ムードの中で動き始めた原発が、できてみると環境破壊や事故への不安がつのり、反原発運動に結び付いていったという過程も日・台で良く似ている。原発に関する日本と台湾の直接の情報交換が増えれば、双方の運動にプラスになるに違いない。
 台湾の反原発運動の様子が日本に伝わることは台湾政府も恐れている。こんな例もある。台湾の反原発運動や少数民族の運動などを学ぶため、日本の大学生ら約200人余りを乗せて88年9月に台湾の基隆港に入港しようとした「ピースボート」に対し、一度は全員にビザを出していた台湾政府が入港まぎわに突然、全員の入国を拒否した。台湾政府は、蘭嶼島の運動などの様子が日本に伝わって日・台の連帯が生まれるのを恐れたのだった。

   8、第3原発、大火事と珊瑚礁の破壊

 1985年7月7日夕方、第3原発1号炉で大きな爆発音がして、原子炉が緊急停止し、発電機付近から出火した。恒春付近の7町の消防署のほか、100キロ近くはなれた屏東市からも消防車が出動し、軍隊もかけつけて消火したが、火は3時間近く燃え続けた。                  
 消防署からの情報で新聞記者が恒春からやって来たが、発電所の入口で職員に阻まれて中に入れなかった。その代わり同日深夜、台湾電力は事故について記者会見し、出火から15分後の5時35分に消防への通報がなされたと発表した。しかしその後、この発表は嘘で、実は大きな騒ぎになるのを恐れる余り、出火後40分以上も発電所の人員だけで消火しようとしたがうまく行かず、ようやく消防に通報したのは6時ごろと分かった。台湾電力は事故の大きさを隠そうとしたのだった。

 火事を起こした1号炉は翌86年9月まで約1年2ケ月間、運転を停止した。運転停止による1日当りの損害額は1000万元(5000万円)と言われている。85年5月に政府が提出した第4原発の建設予算に対する反対運動のほとぼりがさめていない時期に火事が起きたため、事故をきっかけに学者や国会議員の一部が原発の安全性に疑問を投げかけ始めた。

 事故の原因は発電機を設計したアメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)社の設計ミスだった。にもかかわらず、GE社に頭の上がらない台湾電力は、GEから事故の損害賠償を受けなかった。このことが、さらに反対の声を大きくした。当初、台湾電力は「事故の原因は電気系統の故障であり、放射能に関係した部分は問題がない」と強調していた。しかし事故に関する台湾電力とGE社との交渉の後の85年5月「発電機のタービンの設計に重大なミスがあった」と発表し直した。約40億元で購入した1号機のタービンは事故で完全に壊れて廃棄処分となり、合計70億元以上の損害があったが、台湾電力はGE社から全く補償を受けないまま交渉を終わらせてしまった。
 もともと第3発電所の1号機は、運転開始から14ケ月間に50〜60回の緊急停止を起こしており、世界的にみて緊急停止は年に2〜3回が平均であることを考えるとこの数字は異常に多かったといえる。
 第3原発の周辺は、日本で売られている台湾のガイドブックにも風光明眉な場所として大きく紹介されており、国立公園の「墾丁風景特定区」に指定されている。発電所は海に突き出た丘の頂きに立っており、国家公園法によればその頂きには本来、電柱の一本も立てられないことになっている。景色がきれいな観光地として多くの人が見にくる風景の中にコンクリートの原発を建ててしまったため、町長や観光業者を始めとする恒春の人々は原発の建設に反対していた。
 運転開始後、発電所からの温排水の影響で、世界的にも貴重だと言われる付近の珊瑚礁が死滅し始めた。発電所のある集落、南湾の約80戸の住民のうち4分の3は竹の筏で魚を取っている漁民だが、漁獲量が大幅に減ったうえ、市場に持って行っても南湾の魚と分かると安く買い叩かれてしまうという。
 さらに84年10月には、3人の原発作業員が温排水の排水口近くで潜水作業をした後、原因不明のまま次々と死ぬという事故が発生した。環境破壊を懸念する世論のたかまりの中、台湾電力は10億元以上をかけて海域の調査と設備の改善を行ったが、その効果に疑問をはさむ声も多い。また恒春は竜巻が起こりやすい土地のうえ、毎年台風が通過するため、発電所が竜巻や台風によって事故を起こす可能性も高いと考えられている。    
 発電所近くの住民が土地を担保に金を借りようとしたところ、国立銀行が担保価値を認めず金を貸さなかったという事件も起きている。恒春町長は雑誌「人間」のインタビューに答え「発電所のまわりは政府機関も欲しがらない土地になってしまったというのに、発電所が安全だと信じることがどうしてできようか。大事故が起きたら誰が責任を取ってくれるのか。町民は皆、将来は町を離れたいと考えるほどの危機感をもっている。台湾電力の幹部たちは我々地元の人間の不満や不安が分かっているのだろうか」と語っている。
 発電所ではここ数年の間に、11人の作業員がガンで死んでいるうえ、原発で一定期間以上、放射能の高い区域で働き続けた作業員は解雇されてしまうという。そのため86年5月には第3原発の作業員283人が、不当解雇の禁止と作業員の放射線病に対する長期的な調査の実施を訴えて台北の台湾電力本社前でハンガーストライキを行った。住民の反対運動に加え、これまで黙っていた労働者も主張するようになってきたのだった。


   10、第4原発の計画を延期させた人々

 台湾に3ケ所の原発が順調にできあがった1984年、政府は4番目の原発を台湾の北東部の海岸の町、貢寮郷の漁港、塩寮地区に建設する計画をまとめた。翌85年3月、第4原発の計画は国会(立法院)で審議されたが、経済面から議員から反対意見が続出した。
 この時、原発の建設を再考するよう政府に求めた議員は約60人。これだけ多数の議員が政府の計画に異議を唱えるのは、それまで全く考えられないことだった。立法院の議員数は約300だが、そのうち約200人は蒋介石がまだ大陸を統治していた1947年に、大陸で選出されて以来、老衰で議会に出られない議員が続出している現在まで、ずっと議員をしている国民党議員なのである。
 大陸全土が国土だと主張している台湾政府は「国会議員は中国全土から選ばれなくてはならないが、台湾省と、福建省沿岸の金門・馬祖の2島以外の土地は共産党政権に支配されているので選挙をすることができない」との建前を堅持してため「自由地区」と呼ばれる、国民党政府が実際に統治している台湾島周辺の地区以外から選出された議員は一生議員をし続けることになる。
 この制度に関する批判は当然強く、1969年と80年に「自由地区」の議員の定数を、それぞれ約50人ずつ増やし、終身議員以外の、民意を代表して選ばれる議員が増えた。しかし、民進党など野党勢力は12議席で、第4原発の建設に反対した議員のほとんどは、本来反対意見のない国民党議員だったのである。
 原発の建設は、台湾では変更不能な国家の基本政策に定められ、建設に反対する運動はもとより討論もできないものとされていた。しかし政治的な状況の変化が原発に関する状況を変え、台湾の歴史上初めて、国会が政府の基本政策に異を唱えるようになったのだった。

 第4原発の建設予定地のある貢寮は元々、第1原発の予定地だったが、地元の住民が反対し、反対運動の起きなかった石門に建てられることになった。貢寮には3000坪余りのアワビの養殖場があり、住民の7割にあたる8000人が養殖で生計を立てている。養殖場に対しては4億元(89年1月現在の為替率で20億円)の投資がされており、6〜700隻の漁船が港におり、毎年4億5000万元(23億円)の水揚げがある。
 1975年に第4原発の話が持ち上がった際も、すでに塩寮の住民は原発の安全性に関する知識を持っていた。金山や恒春では原発が運転を開始して、人体や環境への被害が出て初めて、人々は原発の危険性を知り、反対運動を始めたのだったが、貢寮では第1原発を追い払って以来、原発の被害への住民の関心は高く、建設計画が出るとすぐ、陳情、集会などによる反対運動が起こった。
 86年5月末、貢寮郷の町民は郷民代表大会の名で総統府、立法院など政府や党関係の9ケ所に緊急の請願を出した。請願では原発の安全性、養殖業や観光業に対する影響、自然破壊などの観点から建設に反対し「建設に関する責任者たちが家族と共に貢寮に定住するならば、郷民は安心するだろう」との考えも付けている。
 88年3月27日、地元の「塩寮反核自救会」や知識人らの「台湾環境保護連盟」などが、塩寮の町中で集会とデモ行進を行った。取材に行った「人間雑誌」のカメラマン、鍾俊陞氏によると、3月27日午後1時、塩寮周辺の11か村の住民が塩寮の小学校の校庭に集まり、2時ごろから1時間にわたり原発建設予定地まで町内をデモ行進した後、放射能漏れが起きた場合の放射能の広がりを調べるため、風船の束を空に放った。
 集会で特に目を引いたのは11か村の一つ、龍門村の一行を指揮していた人で、戦闘用の迷彩服を着て「龍門村」と赤い字で書かれたたすきを掛け、「決死隊」と赤い字で書いた鉢巻きを締めていたという。龍門村の一行には30人ほどの、10歳前後の小学生がおり、手に手に「反核四、救人類」(第4原発に反対し、人類を救おう)と書かれたプラカードを持ち、迷彩服の指揮者のホイッスルに合わせ、おもちゃの兵隊のような行進の仕方で、デモ行進した。参加している小学生に聞くと、校長先生は学校を休んで集会に参加することを黙認したという。

 88年4月24日、4つの原発・原発予定地の周辺住民や学生、市民団体のメンバーら約2000人が台北に集まり、台湾電力に対するデモ行進、抗議行動を行った。塩寮、金山、恒春の人々も地元集会を行った後、参加した。応対に出た台湾電力幹部に対し、台湾大学の張国龍教授が集会に参加した40余りの団体を代表して、第4原発の建設中止を初め、原発事故の原因究明や周辺住民と原発作業員の健康診断の実施、省エネ政策の実施などを要求する抗議書を渡した。張教授ら約10人はその後3日間、台湾電力本社前でハンガーストライキを行った。
 この、88年3月から4月にかけて台湾全島で巻き起こった反原発運動は、これまでで最大のもので、ついには政府も原発建設を凍結せざるを得ず、それまではフル回転で建設され続けていた原発はこれ以降、建設が止まっている。


   11、台湾・中国の原子力交流が始まった?
        
 台湾電力の幹部が、香港の近くに建設中の大亜湾原発の技術指導をしている・・。中国大陸との接触が禁止されている台湾の人々を驚かす報道が1988年4〜5月、2回にわたり野党民進党の機関誌「前進」に掲載された。台湾電力の2人の元幹部が香港経由で大亜湾原発に赴き、技術指導をしているというのだ。

 元幹部の一人は、かつて第2原発の所長を5年間務め、その後原発の安全管理をする「核能品質所」の所長をしていたが、第3原発の大火事の責任を取って退職し、現在はアメリカに渡り、永住権を取って生活している蘇培基氏。もう一人は第2原発建設の時に工事事務所の副主任を務め、原発の設計に関して重要な役割を果たし、定年退職した後、アメリカに移住して暮らしている林勝弘氏である。
 アメリカに住み続けているとばかり思われていた二人の元幹部は、実は大亜湾に行っていたーーーというのが報道の主旨である。
 大亜湾原発は90万キロワットの原子炉2基をフランスのフラマトム社から買い、発電機はWH社とイギリスの会社に発注することが決まっており、技術的には第3原発と重なる部分が多いと言われている。また二人は中国語が母国語だから当然、大陸の中国人技師と意思疎通がしやすいうえ、台湾で多くの原発事故の処理を経験してきた2人は、中国で原子力発電を指導するのにうってつけの人物だった、というのが2人が大陸政府から引っ張られた理由という。

 記事は、国民党政府が大亜湾原発の建設に協力する理由として、アメリカの原子力産業が中国に原発を売り込む手伝いをすればアメリカ政府の機嫌を取ることができ、原発完成の暁には、香港市民の中国に対する反感を募らせることにひと役かうだろうから、国民党に有利なのだとしている。
 これ