スラム街出現の裏にうごめく人々

99年6月18日  田中 宇


 今年1月、ブラジル南部の町クリチバ市を取材で訪問した。日経ホーム出版社が発行している雑誌「日経エコ21」の創刊号(5月号)に、クリチバの環境行政についての特集を書くための取材だった。

 クリチバは1970年代以来、市長を3回つとめた建築家出身のジャイメ・レルネルという人が、高速道路や地下鉄、高層ビル街などをそろえていく従来の開発政策を嫌い、生活者の視点に立って環境重視の都市計画を進めた。

 その結果、1992年のブラジル環境サミットの際は、クリチバで「世界都市フォーラム」が開催され、クリチバは進んだ環境行政を展開している町として、行政関係者の間で、一気に世界的に有名になった。

 クリチバの環境行政が有名になったポイントの一つに、公園をたくさん造ったことがある。市民一人当たりの公園面積は52平方メートルで、世界の大都市の中では、ノルウェーのオスロに次いで、世界で2番目の広さを誇っている。これは、ブラジルが先進国ではないということを考えると、驚きである。

 クリチバ市の公園は、1970年代には一人当たり0.6平方メートルで、現在の大阪市などと同じ水準だった。その後30年近くの間に増えていったわけだが、クリチバ市が公園を増やした目的には、環境保護だけでなく、スラム街ができるのを防ぐということがあった。

 ブラジルでは1950年代以降、大都市周辺で工業化が進み、地方の貧しい農村から大都市へと、出稼ぎや移住してくる人々の流れが、現在まで続いている。彼らは、都市の中の河川敷や、空き地になっている公有地などに住み着き、「ファベーラ」などと呼ばれるスラム街を作っていった。

 クリチバ市は、大西洋の沿岸から50キロほどしか離れていないが、海抜1000メートル近い高原にある。海から送られてきた湿った空気が、ときどき高原にまで上ってきて、大雨が降りやすい気候になっている。

 このため市の周辺には、洪水防止用の公有地がたくさんあり、これらが、田舎からやってきた人々の不法住宅地になることが多かった。こうした動きを防ぐため、クリチバ市では、公有地を次々と公園に指定していった。

●となりの住宅地と変わらないスラム街

 市役所を訪れたり、低所得者層の人々が住んでいる地域に行って、通訳を通じて話を聞いたりしながら、クリチバの現状や歴史を取材したが、その中でどうも理解できない現象があった。「スラム街は一夜にして出現する」ということである。

 スラム街というのは、田舎から都会に出てきて住むところのない人々が、だんだんと自然に集まって形成されていくものではなかったのか?。

 市役所の広報担当者をしているカズミ・ヒロノさんは「昨年も一夜にしてスラム街が作られ、退去を命じる市当局と、団体交渉になったことがあった」と言う。

 どうも、クリチバのスラム街は、「自然に」形成されていくものではなく、誰かがリーダーシップを取って作るものであるようだ。誰が、どのような経緯でそんなことをするのだろうか。

 この疑問は、筆者のクリチバ滞在中、ずっと引っかかっていた。クリチバ在住の日本人で、案内と通訳をしてくれた富田元子さんに「昨年、一夜でできたスラム街に行きたい」と言うと、最初は「私も行ったことがない。危ないところではないか」と言っていた。

 だがその後、富田さんは知人や市役所に聞き回ってくれて、筆者のクリチバ滞在の最終日に「カンポ・ドス・ペラデイロス」(Campo dos Peladeiros)という、問題のスラム街に行けることになった。

 このスラム街は、市の東側を流れる川の、洪水防止用の氾濫原の一部にある。近くには、河川敷を利用した市の公園もあるが、スラムはその外側で、公園にはなっておらず、幅1キロほどの草むらが、何キロも続いているような場所だった。

 土手になっている国道わきに立つと、原っぱの奥の方に、バラックがまばらに立ち並んでいるのが見えた。それが、スラム街だった。

 この日は、筆者に対してスラム街ができたいきさつなどを説明してくれるため、スラムの地域が属している区のコミュニティ出張所から、男性職員が同行してくれた。雨が降りそうな曇り空の下、国道から、ぬかるみの道を車に乗ったまま入っていくと、ブロック造りや木造の質素な小屋のような家が、まばらに建っている一帯へと入り込んだ。

 ここがスラムかと思ったが、ここはまだ不法占拠地ではなく、市が低所得者層向けに分譲した住宅地だという。言われてみると、家と家の間には、柵も門もないものの、家の間隔は5メートルおきぐらいで一定だ。工事中の家や、まだ何も建てられていない区画もある。家の数は全部で30−40というところだ。

 住宅地を抜けていくうちに、市の人が「ここからが、不法居住の地域です」と言って車を止めた。降りてみたが、その先も、まだ同じような掘っ建て風の住宅街が続いている。スラム街というと、ぎっしりと粗末な家が密集している場所を思い浮かべるが、それとはかなり違う。普通の低所得者向け住宅地の続きのようにしか見えない。

●プロの「スラム街建築士」たち

 市の人にいろいろ尋ねてみると、だんだん事情が分かってきた。

 田舎からクリチバに出てきた人は最初、市内にある長距離バスターミナルに降り立つ。右も左も分からないままバスを降りた人々に対し、近づいて話しかける男たちがいる。彼らは、出稼ぎにきた人々を客にする、プロのブローカーである。

 ブローカーはターミナルで張っていて、出稼ぎ者を見分け、声をかける。そして、住むところが決まっていない人々に対して、既存のスラム街(不法居住地)の家(というか小屋)を安く貸すよ(もしくは売るよ)と持ちかける。

 出稼ぎの人々は、そこが不法居住地だと知らず(もしくは知っていても無視して)、合法的な賃貸住宅よりずっと安いその家に、金を払って住み始める。

 そうやってスラム街に住んでいると、そのうちに、こんどは別のブローカーがやってくる。「ここより、もっと良いところに住まないか」。

 彼らは、各地のスラム街を回って募集し、あるいは一つのスラム街の人々全員をその気にさせて、ある日の夜、目をつけておいた公有地に、人々を引き連れて乗り込む。

 そして人々は事前の打ち合わせ通り、周りをビニールシートやベニヤ板で覆った、にわか作りの小屋を数時間のうちに建ててしまう。応募してきた人の中には、公有地への急襲を生業としている「プロのスクワッター」も多くおり、手際良く「家」を建ててしまう。

 そうではない素人を教える「技術者」や、ビニールシートなどの「建材」を売る業者も一緒について行き、営業活動を展開する。こうして、翌朝には、新しい町が出現しているというわけだ。

 市当局がこれに気づき、撤去命令を出すと、プロの交渉屋たちが「住民代表」となり、「貧しい人々VS強権的な市当局」というイメージをまき散らしつつ、市の住宅政策の不足を攻撃しながら、この地区を合法的な住宅地として認めるか、代わりの居住地をあてがえ、と主張する。

 交渉が長引いている間に、不法占拠者たちの家の材質は、ビニールから板張りやブロック製へとグレードアップしていき、次第に合法の低所得者用住宅地と見分けがつかなくなっていく。

 プロのスクワッターは、不法占拠の最初の数日が過ぎた時点で、本当に住み続けてくれる人を探し、土地を売ってしまう。その価格は大体1000レアル(6-10万円程度)というのが相場だという。

 筆者が訪れたカンポ・ドス・ペラデイロスの不法居住地が出現したのは、昨年10月のことだった。筆者が訪れたとき、すでに出現から3ヶ月以上が過ぎていたため、となりの合法住宅地と見分けがつかなくなっているのだった。合法地と同様、不法地区でも、家の新築作業があちこちで続けられていた。

 よく見ると、合法地区には電柱があり、電線が各戸に引き込まれていたが、先の方の不法地区には、電線が通っていなかった。しかし、家の屋根にはテレビのアンテナが無数に立っている。どこからか、電気は来ているのだ。

 「彼らは、穴を掘って電線を地下に埋め、こちら側のどこかの電柱から、目立たないように線を引っ張って、盗電しているはずですよ」と、市の人が言う。

 不法住宅街も、区画整理をしてから作ったようで、電線がないという点以外は、合法地も違法地も変わらない。スラム街を作ることを計画した「不動産業者」が、わざわざ区画整理をしたのは、そうしておけば、あとで市が合法化を決定するだけで、再度の区画整理をせずに、合法住宅にすることができるからだろう。

 合法化に成功したら、住宅は市場価格で売れ、不動産業者や、不法占拠に参加した人々は、大もうけできるという仕掛けだと考えられる。

●政争の道具に使われるスラム街

 この不法住宅が有名になったのは、こうしたいきさつを超える事情があった。スクワッターたちが、この街の原型を一晩で作り上げたのは、昨年10月に、地元パラナ州の知事選挙の投票日の2日前のことだった。

 知事選は事実上、現職だったレルネル知事と、国会議員から知事になろうとしていたレギオン上院議員の一騎討ちで、結果はレルネル氏の再選だった。

 レルネル氏は、この記事の最初の方で書いたように、クリチバ市長を長く務め、住民サイドに立った行政をした人として知られている。現在クリチバ市長を務めるタニグチ氏は、かつてレルネル市長時代に、局長などを歴任した人で、レルネル門下生だ。

 それで、知事選の48時間前に、突然おこなわれたスラム街建設の裏側には、レルネル=タニグチラインにダメージを与え、知事選を有利にしようとするレギオン側の策謀があったのではないか、というのがクリチバ市民の裏読みだ。

 選挙間近という微妙な時期の事件ということで、パラナ州のマスコミはペラデイロスのスラム街出現のニュースを流し、不法占拠した人々は口々に、レルネル=タニグチラインの住宅政策がお粗末なものであると主張した。が、結果はレルネルの再選勝利であった。

 このようにブラジルでは、スラム街の栄枯盛衰に政治が絡むのは、珍しいことではないらしい。スラム街に住んでいる人々は、失業や住宅・衛生問題など、多くの不満を抱えている。そこに政治家がやってきて「次の選挙で私に入れてくれれば、これこれのことをしてやる」と言えば、票の取りまとめができる。

 多くのスラム街には、すでにいずれかの政治家との関係ができているから、各政治家がさらに勢力を拡大しようとするなら、新しいスラム街を作る、というのが一つの方法となっている。

●カーニバルの裏側で・・・

 とはいえ、スラムは政治に使われるだけの道具ではない。むしろスラムに関わる人々の方が、政治でも何でも、使える機会を何でも使って、収入増加と生活環境の向上を追及しているという感じだ。

 筆者がそう思ったのは、ペラデイロスの人々から「カーニバルのときに、またひと波乱あるかもしれないよ」という話を聞いたからだった。

 筆者たちがペラデイロスを訪れたのは、1月24日だったが、その3週間ほど後の2月中旬には、ブラジル最大の年中行事であるカーニバルが予定されていた。

 カーニバルというと、リオデジャネイロが有名だが、リオだけでなくブラジル全土、いや正確には、南アメリカのほとんどの国で、この時期にカーニバルが行われる。ブラジルでは1週間にわたり、休日となる。

 この時期、警察はカーニバルの警備で手一杯だ。その他の人々もみな、関心はカーニバルで、たとえ休日出勤の必要が少しぐらいあっても、仕事などしない。

 そこを狙って、人々がこの近くの別の公有の空き地に急襲をかけ、新しいスラムを出現させるという計画が、ひそかに練られ、参加者を募集中であるというのだった。

 役所が騒ぎ出すのは、何日か先のカーニバル明けだ。それまでには十分時間があるので、立派な住宅街を作り上げ、その後ゆっくり役所と交渉するという作戦らしい。ブラジルのカーニバルは、ただのお祭りではないと聞いていたが、確かにそうだと納得した。

 さらに笑ってしまったのは、この話を筆者に伝えてくれた通訳の富田さんが「私もひと仕事しに行こうかしら」などと、冗談めかして言い出したことだった。

 この日、突然に訪れた筆者たちに対して、スラムの人々は、遠くから警戒心を込めて見ていたが、中にはこちらに来て、市の人や富田さんと雑談をしていった人もいた。その中に、自転車の荷台に大きな箱を積んで、何やら行商のようなことをしている中年女性がいた。

 後で聞いたところ、この人は弁当やお惣菜を荷台に積んで売って歩いているのだそうだ。そして、新しいスラムができるときの「建設期間中」には、彼女のような商売人たちが大勢やってきて、まだ炊事道具の整わない新しいスラムの住人たちに、弁当や食材を売って歩くのだという。

 その多くは、こういうときだけ商売をするセミプロなので、富田さんは「私にもできそうだから、やってみようかしら」と言ったのだった。新しいスラムができるときは、食品のほか、木材やクギ、飲料水、日用雑貨など、新しい「街」が必要とするものを売りにくる人々が、どこからともなく現われて、にわか仕立てのマーケットが出現するそうだ。

 その後、カーニバルのときにクリチバのどこかでスラムの出現があったかどうか、富田さんが弁当を売りに行ったかどうか、彼女と連絡を取っていないので分からない。でも、こんな話自体に、ブラジルの人々のしたたかさが込められているような気がした。





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