イラク攻撃の裏にあるアメリカのずさんな戦略

98年12月31日  田中 宇


 騒ぎはやたらに大きいが、ものごとの流れとして見た場合、こう着状態が続くマンネリズムに陥っている・・・。12月上旬にアメリカ軍がイラクをミサイル攻撃したことを、筆者なりにとらえると、そんな感じになる。

 イラクは1991年の湾岸戦争以来、アメリカと仲の良いイスラエルやクウェートに仕返しするためのミサイルや化学兵器、生物兵器などの開発を進めているとされる。アメリカは湾岸戦争後、国連に働きかけて、イラクがこれらの大量破壊兵器の開発を止めるまで、「国際社会」がイラクに対する経済制裁を続ける、という戦法を実施している。そしてイラクは、兵器の開発をやっていないことを示すため、国連の特別査察団(UNSCOM)を受け入れて、査察活動が続けられていた。

 だが、「兵器の開発をやっていないと言うのなら、俺たちが見たい場所を全部査察させろ」と主張して、イラク国内のさまざまな軍事施設、政府施設などを見せるよう要求しつづけるUNSCOMと、「それは査察ではなく、スパイ行為だ。UNSCOMが得た情報は、アメリカとイスラエルに筒抜けになっており、イラクを侵略するために使われかねない」として、査察要求を突っぱねるイラク側とが、しばしば対立してきた。

 そして、そんなこう着状態に業を煮やしたアメリカは、12月はじめにUNSCOMがイラク側の非協力ぶりを綴った報告書をまとめたことをきっかけに、イラクに対して威嚇する意味で数百発のミサイルを洋上から撃ち込んだ。攻撃目標の中心は軍事施設で、軍人など100人前後のイラク人が死亡した。

●経済制裁が解除されると困るアメリカ

 この出来事が「マンネリ」だと思われるのは、アメリカがイラクをミサイル攻撃しても、イラクとアメリカの対立状態に大した変化がないということが、事前に分かっていたからだ。またアメリカが、98年2月にイラクがUNSCOMの査察に協力しなくなって以来、何とか機会を見つけてイラクをミサイル攻撃しよう、と考えてきたことも、意外さを欠く原因となっている。

 アメリカは、11月にイラクがUNSCOMの要求を拒否した際に、攻撃を実施する寸前の状態まで行っていた。だが、イラク側が一転して査察を受け入れるという譲歩を行ったため、アメリカは「刀の柄に手をかけた」ところで動きを止めざるを得なかった。その後もアメリカ政府は、何とかしてイラクにミサイルを撃ち込みたいと考えていた。

 イラクに対する経済制裁は8年目に入り、イラクの人々は生活水準の悪化に悩んでいる。そんなイラクの状況をみて、フランスやロシア、それから周辺のアラブ諸国が、経済制裁を続けてもサダムフセイン政権が倒れない以上、制裁は中止したほうが良い、と言い出した。フランスやロシアは、歴史的にイラクとの関係が深いため、制裁が解除されれば、イラクの石油を買う権利を自国企業に独占させることができると考えている。

 ところが、イラクの経済制裁が解除されると、フセイン大統領は、アメリカに対する「勝利宣言」を行い、アラブ中の反米意識を持った人々の支持を取り付けて、アラブの盟主になろうとするだろう。イラクは豊富な石油資源を持ち、首都バクダッドは歴史的にアラブ世界の中心地だったため、人々の教育水準や技術レベルも高い。今は経済制裁を受けて国力が落ちているが、制裁が解除されれば、再び強さを取り戻す可能性が大きい。

 そうなると、イラクはアラブ世界をまとめて、アメリカを中東から追い出し、イスラエル、それからサウジアラビアやクウェートの親米政権をつぶしにかかるかもしれない。イラクの経済制裁が解除されれば、アメリカの中東外交が大失敗に終わる可能性が高まるのである。

 そのため、アメリカとしては、制裁を解除せざるを得なくなる前に、何とかしてフセイン政権を倒したい。それにはミサイルをイラクの軍事施設に撃ち込んで、フセイン政権を守っている軍の精鋭部隊を無力化し、イラク国内の反フセイン勢力がクーデターを起こせる環境を作ってやるのが良い、とアメリカ政府は考えた。

 ミサイルを撃ち込む時期は、なるべく早い方が良く、UNSCOMが「もっと査察させろ」と無理なことを言えば、イラク側は突っぱねざるを得ないので、攻撃の口実はいつでも作ることができた。だがイラク攻撃は、クリントン大統領の「強さ」を示す良いチャンスでもあるので、どうせならクリントン大統領の支持率アップが必要な時の切り札として使いたい。

 そんな風に考えていたところに起きたのが、アメリカ議会での大統領弾劾決議の問題だった。今こそイラクを攻撃し、フセイン大統領を追い込むとともに、自分の支持率をアップさせて弾劾危機を乗り切ろう。クリントン大統領はそんな風に考えて、イラク攻撃を決意したのではないか、と筆者は思っている。

 「いつでもできる」ことをやったまでのことなので、イラクへの攻撃は9月ごろから「いつ起きても不思議はない」と予測されて、欧米の新聞に書き立てられていた。だから、実際に爆撃が始まっても、マンネリと感じたのだった。

●イラク反体制派は「烏合の衆」?

 だが一方、クリントン大統領のこの作戦は、ほとんど成功する見込みがないこともまた、以前から予測されていた。というのは、アメリカの爆撃によっていくらフセイン政権が弱体化しても、イラクでクーデター起こる可能性は非常に低いからだった。

 イラクには、(1)北部の山岳地帯に住むクルド人、(2)南部に住むシーア派イスラム教徒、(3)フセイン政権を嫌って国外に亡命した人々、という、3種類の反体制色の強い人々がいる。

 湾岸戦争に負けてもフセイン政権が崩壊しなかったため、アメリカ政府はCIAを使って、この3つの勢力を結集させ、1996年に北イラクで反政府蜂起を企てた。だがこの計画は実行直前にイラク政府に察知されてしまい、逆にイラク軍が北イラクに進軍し、反政府組織を叩き潰してしまった。

 反政府組織を構成する3種類の人々は、もともと仲が良かったわけではないので、互いの不信感が強く、結束できなかった。そこにイラク政府のスパイが潜り込み、情報が政府側に漏れたのだった。

 亡命イラク人の主力は、元軍人や元政府職員で、フセイン政権から反逆の疑いをかけられそうになってイラクを逃げ出した人々である。彼らは、イラクに住んでいたころは、フセイン政権の手足となって、クルド人やシーア派の弾圧に関与していた。クルド人やシーア派にとっては、そんな奴らと仲良くなれとアメリカ人に言われても、無理な相談だった。

 そうした失敗に懲りて、その後アメリカはイラクの反体制派を援助することを、ほとんど止めていた。フセイン大統領は、自分の身の安全に非常に敏感な人で、彼がいつどこにいるかを知っている人は、政府内でもごく限られた人々だけだ。そして、そういった人々も、しばしば配置転換され、側近の寝返りを防いできた。

 その一方で、スパイ網、密告網を駆使して、内外の反体制派の動きに目を光らせていたから、国内に反体制派の秘密組織が生まれることはなかった。アメリカ政府が「イラクを攻撃すれば、フセイン打倒のクーデターが起きる」と考えたのは、現実に基づかない楽観であった。

●民主主義イコール親米政権になるか

 しかも、今回のイラク攻撃により、今後はUNSCOMによるイラクの大量破壊兵器に対する査察は不可能となった。これまでは「見せろ」「見せない」という、言葉の論争だったのに、アメリカがいきなり爆撃という暴力に切り替えたわけだから、イラクとしては、アメリカに十分あやまってもらわない限り、査察団を受け入れるわけにはいかなくなった。アメリカがあやまるということは、経済制裁を解除させるということだ。

 そして、UNSCOMの査察を終わりにせざるを得ない以上、国連の対イラク制裁についても、緩和する方向で考え直した方が良い、という主張が、フランス、ロシア、中国、ドイツ、アラブ諸国などから上がっている。このままだと、アメリカとイギリスはいずれ、制裁解除を飲まざるを得なくなる可能性が大きい。それを避けるため、アメリカ政府は、新年早々にもう一回、イラクをミサイル攻撃するのではないか、と予測されている。

 一方、アメリカ議会は今秋、イラク反体制派に1億ドル近い資金を提供し、フセイン政権を打倒するためのプロジェクトを行う、という法律を作った。この計画に96年の失敗の教訓がどの程度生かされているのか、大きな疑問である。

 アメリカは、フセイン政権を倒し、イラクの人々の民意を反映した民主的な政府を作るための手伝いをする、というのが、この計画の趣旨である。だが、もしこの計画が成功してフセイン政権が倒れ、現在のイラク反体制派が政権を取ったとして、それが民主的な政府になるのだろうか。

 たとえば亡命イラク人たちは、現在フセイン政権を支えている人々と、独裁傾向の強さからいって、大した違いはない。また、クルド人やシーア派は、イラクの支配層であるスンニ派のアラブ人と、必ずしも仲が良くない。下手をすれば、フセイン政権が崩れた後、イラクは3派間で内戦状態に陥る可能性もある。

 しかも、アメリカは「民主主義」というが、選挙によってイラクの有権者が反米を掲げるリーダーを選んだとしたら、どうするのだろうか。どうみても、イラクの人々の大多数はこれまで同様、今後も反米の立場だろう。イラクに民主的な政権ができたら、それは必ず親米政権になる、と考える(もしくは、考えているふりをする)あたりがそもそも、アメリカ政府を動かしている人々の勘違い、もしくは欺瞞だと思うのだが。

 
田中 宇

 






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