香港金融市場・世紀の大決戦

98年9月21日  田中 宇


 8月14日は香港にとって「もう一つの返還日」と呼べるかもしれない。香港がイギリスから中国に返還されたのは昨年7月のことだが、その後も香港はイギリス時代と同様、「世界一規制が少ない」といわれる自由な金融市場を維持していた。

 だが8月14日、香港の中央銀行にあたる金融管理局(HKMA)は、香港の金融市場を使って一儲けしようとした投機筋を撃退するため、史上初めて株式市場に介入し、公的資金を使って優良株に巨額の買いを入れたのだった。

 香港は、以前の主人だったイギリスが定めた欧米流の自由主義を捨て、新しい主人である中国政府が好みそうな、当局が市場の動向を決定するというやり方に改めた、といえる。領土が返還されてから1年余りたって、市場の原則も中国式に移行したわけだ。

●政治変動から逃れるためのペグ政策

 普通、国家の中央銀行は「通貨の番人」であり、為替市場に介入するのはよくあることだ。だが、香港金融管理局が介入したのは、為替市場ではなく、株式市場であった。これは世界的にみても異例のことだ。そんなことになったのは、香港ドルが東アジアでは唯一、米ドルと相場がリンクしている通貨だというところからきている。

 香港ドル相場はこれまで、政治変動などを受け、何回か暴落を起こしている。香港返還をめぐる中国とイギリスの交渉が暗礁に乗り上げた1983年9月には、大量の資金が香港から流出し、大暴落した。

 この時は、香港政庁が買い支えて介入し、1米ドル=7.8香港ドルという固定相場制に移行することで乗り切った。その後の英中交渉の難航や進展によって、香港ドルの相場が激しく上下することを防ぐため、世界最強の通貨にペグ(釘付け)したのであった。

 米ドルにペグしたため、その後の香港経済は安定し、トウ小平氏の改革開放政策による中国の高度経済成長の恩恵を受ける形で、香港経済も発展した。こうした好調さから、香港が中国に返還された後も、新しい香港の主人である中国政府は、米ドルへのペグ政策を続けている。

 昨年10月、東南アジア通貨危機の余勢を駆って、ヘッジ・ファンドなどの投機筋が、香港ドルを狙い撃ちしてきた。すでにタイやインドネシア、フィリピンなどで、それまで事実上米ドルにリンクしていた各国通貨は、投機筋の大量売りによってリンクを外され、暴落してしまっていた。

 すでに香港は中国に返還されており、その意味で香港ドルのペグも、本来の役割を終えている、という要素もあった。投機筋は、香港ドルのペグも外せる、と読んだのだろう。

●1回戦は投機筋の勝ち

 ペグのメカニズムは、次のようなものだ。香港ドルを売って米ドルなど外貨を買う動きが広がると、金融市場で香港ドルが余るようになり、放っておくと香港ドルの相場が下がり、ペグが外れてしまう。そこで金融当局は、国債を売って香港ドルを買うオペレーションを行い、市場から香港ドルを吸い上げる。

 そうすると、為替相場は維持されるが、たくさんの国債を一度にさばこうとすれば、国債の金利を上げないと売れなくなる。(高金利にして国債の魅力を高めないと売れない)国債の金利は、民間銀行の預金や融資など、全ての金利のベースとなるものだから、香港における市中金利が上がることになる。

 そして逆に、香港ドルの需要が増えすぎた場合は、民間銀行が持っている国債を金融当局が買うことで香港ドルを市場に供給し、為替の上昇を防ぐ(そして金利は下がる)。これが、ペグ制度の根幹をなすメカニズムである。

 香港金融管理局はそれまで大体、総額にして40億米ドル分の国債を売買して市場から出し入れすることによって、香港の為替相場を保っていた。投機筋は、香港の市場が40億ドル以上の資金の出入りに慣れていないことに目をつけ、昨年10月、50億ドルの香港ドルを調達して突然、売り浴びせた。

 香港の短期金融市場は、この売りをさばき切れず、パニック状態となった。金融管理局は、短期金利を280%にまで上昇させて、何とか50億ドル分の国債をさばいて香港ドルを買い取り、ペグ制を維持した。

 だが、金利の上昇は、経済全体に悪影響を与える。企業が資金調達する際の金利コストの急増は、企業業績を悪化させる要因となるため、株式相場が下落することになった。そして投機筋はそこまで読んで行動していた。

 彼らは、証券会社に手数料を支払って巨額の株を借り上げ、それを市場であらかじめ売っておいた。(これを空売りという) 10月28日、金利の急上昇を受けて、香港の株式相場は13.7%の大幅下落となった。すかさず投機筋は安値で株を買い戻し、売った時との差額を儲けることになった。投機筋と香港当局の第1回戦は、投機筋の勝ちで終わった。

●2回戦は当局の勝ちのように見えたが・・・

 今年7月ごろから、アジア経済は一段と悪化傾向を強めることになった。固定相場制をとっている中国が、人民元の為替相場を切り下げるという憶測が広がり、日本では円安が続いていた。

 そんな情勢を見て、再び投機筋が動き出した。8月5日、40億米ドル分の香港ドルが、アメリカの投資銀行4行を通じて、一気に売りに出された。売り注文を出したのは、投機筋の親玉といわれるジョージ・ソロス氏だとみられているが、確証はない。

 今回は、香港当局も戦いの準備をしていた。香港政庁は、景気テコ入れ策として、赤字国債を発行し、その金で公共事業を行うことを決めていた。当局は、その国債28億ドル分をこの日発行し、投機筋が市場に吐き出した香港ドルを一気に吸い上げた。短期金利はこの日、4.5%から7.5%に上がっただけにとどまった。

 投機筋は今回も、株式相場を急落させて利益を得ようと網を張っていた。今回は株の空売りではなく、ハンセン指数先物を買い込んでいた。ハンセン指数は香港の株価水準を表す指数で、指数先物は毎月の月末に決済される。

 投機筋は、8月末に指数が8600以下となれば、投機筋に利益が出るように、指数先物を買っていた。指数が5000以下となれば、最初に調達した40億ドルに対する金利を支払った上で、巨額の利益を手にすることができるよう、設定されていた。

 金利上昇によって株価を急落させることができなかった投機筋は、「人民元が切り下げられる」「香港がペグ制を廃止する」などといううわさを流し、相場を下げようとした。ハンセン指数は8月5日の7400ドルから、13日には6500台まで急落した。

 これに対して香港金融管理局は8月14日、優良株の大量買付けを実施し、株価を一気に押し上げた。投機筋への宣戦布告である。さらに、株式指数先物が決済される月末の8月28日(金曜日)にも大量の買いを入れ、この日のハンセン指数は7800まで上昇、投機筋の利益を最小限にとどめることに成功した。

●終わりのない戦いに巻き込まれた香港当局

 だが、ここで戦いが終わったわけではなかった。

 すでに香港当局は、150億ドルもの公的資金を、株式市場に投入していた。このまま相場の買い支えを続ければ、数週間で香港政庁の資金は底を突いてしまう、という状態だった。そのため、先物指数の8月分が決済された後の8月31日には、買い支えを止めたが、途端に株価は7%以上も下落してしまった。

 投機筋は、資金を積み増し、9月分の株式先物に乗り換えた、と言われており、香港当局は終わりのない戦いに巻き込まれることになった。

 こうした状況を見て9月1日には、アメリカの金融格付け会社が、香港の国債に対する格付けを引き下げた。香港当局が、投機筋との戦いに打って出て、巨額の公的資金を使ってしまったことに対して、マイナスの評価を下したのである。

 通貨のペグ制度とは、米ドルの信用を借用した、いわば借り物の信用であり、それだけ不安定さを含んでいる。

 香港当局にとって、最も恐いのは、投機筋からの攻撃そのものではなく、攻撃によって香港ドルの不安定さが増し、香港の一般の人々が香港ドルに見切りをつけ、預金を米ドル建てに移したり、手持ちの香港ドルを米ドルに両替しようと列をなすことだ。

 すでにロシアのルーブルはそうなっているし、ジャカルタやクアラルンプールでも、ドルを求める人々の行列ができたことがある。今のところ、香港の全預金に占める香港ドル建て預金の割合は57-58%で安定している。だが今後再び投機筋が、これまでと同様の手口で突いてくる可能性は高い。

 ペグ制度が持つ不安定さを解消するには、ペグをやめて相場を自由に上下させてしまうか、香港ドルそのものを廃止して、香港の通貨を米ドルにしてしまう、といった方法がある。だがもしペグを廃止すれば、香港ドルの暴落は避けにくい。

 香港の通貨を米ドルにしてしまう案は、何人かの専門家が主張しているものの、誇り高き北京政府の賛同を得ることは難しそうだ。結局、香港は今後も、投機筋からの攻撃にさらされながら、ペグ制度を続けるしかない、とみられている。

●アジアにはアジアの陰謀がある?

 アジアでは、時を同じくして、マレーシアではマハティール首相が投機筋によって為替市場が不安定になることに業を煮やし、自国通貨の海外での取り引きを禁止し、「通貨鎖国」を実施した。

 世界では、冷戦崩壊以降、市場の規制をなくして相場の上下を政府が管理せず、「市場原理」に任せることが良い、という「自由市場原則」が、絶対の真理のように扱われている。だが、「自然現象」や「神の見えざる手」のように見える市場動向の裏には、短期間に相場を上下させて儲けようとする投機筋がいて、「自然」に任せても市場は安定しなかった。

 欧米、特にアメリカの金融市場は好調なのに、アジアなどその他地域は安定しないのをみて、マハティール首相は「これは欧米の陰謀だ」と主張し、自国市場を世界から隔離した。そして、香港の当局が投機筋と戦うために市場介入したことも、それと同様の現象であり、「アジアはアジア式にやる」と主張し始めたのだ、とも考えられる。

 だがよく見ると、香港やマレーシアの市場介入や規制強化からも、陰謀の臭いが発している。

 8月14日に香港金融管理局が大量買いを入れる直前の、8月11日から13日にかけて、香港の株式市場では、大手の不動産会社のオーナーらが、巨額の買いを入れた。彼らはハンセン指数が6800-6600の時に買ったのだが、その後8月14日、市場介入により指数は7300まで跳ね上がった。

 買いを入れた財界人たちは、香港の行政長官である董建華氏の親友たちである。香港では「8月14日の介入の情報は、事前に財界人たちに漏れていて、それで香港を牛耳る人々や、北京政府につながる人々だけが巨額の儲けをあげたのではないか」などとささやかれている。

 一方、マレーシアでは「通貨鎖国」は、マハティール首相率いる与党UMNOの資金源となっている企業群を経営破綻から救うための措置だったではないか、という見方が出ている。

 しかも、香港の大金持ちたちは、資産運用先の一つとして、欧米のヘッジファンドにお金を預けている人が多い。アジアの人々を困らせて儲けている投資家の中には、欧米人だけではなく、アジア人自身も含まれているのである。

 欧米式価値観の裏に欧米流の陰謀が隠されているとしたら、アジア式価値観の裏にはアジア流の陰謀が隠されている、と疑ってみたほうがいいのかもしれない。

 

 


関連サイト

DESPERATE MEASURES

 香港当局と投機筋のバトルについてのアジアウイークの記事(英語)。
ハンセン指数の表がついた解説も。また、アジアウイークのウエブサイトには、膨大なバックナンバーが用意されている。これをすべて読めば、あなたも完璧なアジア通だ。ただし全て英語。

ハンセン指数の過去3ヶ月間の動向

 Yahoo! Finance にあるチャート表

 






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