宿敵スーダンを活気づけたアメリカのミサイル攻撃

98年9月16日  田中 宇


 8月20日、アメリカがスーダンとアフガニスタンにミサイルを撃ち込んだ事件は、その後、クリントン大統領の性的スキャンダルにかき消されて、忘れられた感がある。

 だがスーダンではその後、ミサイルを撃ち込まれたことが、ダメージとなるどころか、逆に、崩壊に近づいていると思われていたイスラム主義政権に、力を与える結果となっている。

 いくつもの民族から成り立っているスーダンは、1956年に独立した後、民族対立や宗教対立がほとんど絶え間なく続いている。特に、スーダン北部に住むイスラム教徒の政府軍と、南部に住むキリスト教徒やアニミズム信仰の人々による反政府軍との内戦は15年以上も続き、アフリカで最も長い内戦となっている。

 スーダンは1983年にイスラム法を導入してから反米色を強め、アメリカ軍・政府の施設などを爆破するテロリストをかくまっていると疑われるようになってからは、アメリカが南部の反政府軍に対する支援を行うようになり、内戦を長引かせる一因となっている。

 現在スーダンを統治しているバシル政権は、1989年にクーデターで政権を奪ったのだが、その後、南部の反政府軍からだけでなく、東部のエチオピアやエリトリアとの国境近くにも、別の反政府ゲリラが登場した。

 エチオピアとエリトリアは比較的親米色が強いので、これらの国々が支援するゲリラ活動が始まり、対抗してスーダン政府も、自国領内に逃げ込んできたエチオピアとエリトリアの反政府組織をかくまい、支援したため、スーダンと両国の関係は悪化していた。

 南と東からの攻撃が続いた上、イスラム化に反発する人も多く、バシル政権に対する国民の不満は、潜在的にどんどん大きくなっていると考えられていた。

 スーダン政府は1995年から、南部ゲリラとの和平交渉に乗り出し、「南部で国民投票を実施し、その結果によっては南部が北部から独立することも認める」というところまで譲歩した。だが、南部ゲリラも内部ではいくつものグループに分かれていたため、交渉はうまく行っていない。

 スーダンは、このままではコンゴやソマリアのように、政権が崩壊して国内がいくつにも分裂してしまうのではないか、との予測が出始めていた。

 そんなところに突然飛んできたのが、アメリカ軍のミサイルだった。ミサイルが攻撃した首都ハルツーム郊外の製薬工場は、イラクと協力して毒ガスVXを作るための工場であり、一般の医薬品はまったく作っておらず、工場周辺をものものしく軍が警備するような重要拠点である、とアメリカ政府は発表した。

 だが、それから何日もしないうちに、アメリカの発表はどんどん「後退」していった。

●急にジャーナリストを歓迎し出したスーダン政府

 攻撃の後、破壊された工場を訪れた欧米のジャーナリストたちは、そこに民生用の医薬品が散乱しているのを見つけた。この時点で「純粋な軍事工場」という米政府の発表は間違いだ、ということになった。

 スーダン政府は、攻撃を受けた直後から、取材を希望する欧米や日本のジャーナリストたちを、どんどん受け入れた。しかもスーダン国内では、以前より外国人ジャーナリストの行動の自由が大幅に緩和され、どこでも行きたいところに行け、撮りたいものを撮影できるようになっていた。

 スーダン政府は、ミサイル攻撃を受けた工場がまったくの民生用であり、毒ガス関連の生産など行っていなかった、という自分たちの主張に対して自信を持っており、だから欧米のジャーナリストを自由に行動させたのだった。

 ハルツーム市内では小中学生や市民が動員されて反米デモを行い、「No War for Monica」などという英語のプラカードもあったという。クリントン大統領が、モニカ・ルインスキーとのスキャンダルから米国民の目をそらすため、ミサイル攻撃に及んだのではないか、と言われていることに基づいた皮肉である。

 アメリカの各紙はハルツーム発の記事で、こうしたスーダンの状況を、米政府を批判するタッチで報道した。

 批判されたアメリカ政府は、攻撃対象となった工場でVXガスの原料が作られていると判断した根拠を発表した。情報機関のエージェントが、問題の工場の近くの土を秘密裏に採取してアメリカに持ち帰り、調べたところ、VXガスの原料とする以外の使い道がない「エンプタ(EMPTA)という物質が含まれていることが分かった、というのが根拠だった。

 だがこの点も、アメリカ政府の首を絞めることになった。発表を聞いて、米国内の学者から、「一つの土のサンプルだけでは十分な証拠とはいえない」「エンプタと良く似た物質は農薬などにも含まれており、誤認した可能性もある」などという批判の声が上がったのである。

●すぐに分かることを調べなかった米政府

 一方、スーダン政府は、アメリカと国連に対して、中立的な立場の調査団をハルツームに派遣して、破壊された工場跡を子細に調べ、真相を究明してほしい、と要請した。

 だが、アメリカも国連も、なんの返事もしていない。これは米政府に対する疑惑を増やすばかりでなく、国連が米政府の言いなりにしかなれないという、国連とアメリカとの関係をも表す結果となった。

 またアメリカ政府は当初、この工場がアラブのテロリスト軍団の黒幕といわれるオサマ・ビンラーデンの資金で建てられたものだと言っていたが、その後この主張を引っ込め、「ビンラーデンはいくつものスーダンの軍事工場に投資したが、この工場は含まれていなかった」と言い直した。

 結局のところ、この工場は、抗生物質や家畜用の医薬品を作っていた純民生用の工場であるようだ。製品は国内市場向けのほか、イラクにも輸出しており、代わりにイラクから石油を輸入していた。

 イラクは現在、国連が決めた経済制裁を受けているが、医薬品などの人道的物資は制裁の例外とされており、この工場も国連の認可を受けた上で、イラクに医薬品を輸出していた。つまり、この工場の素性は、国連によって把握されていたことになる。

 この工場は建設時、イギリスのコンサルタント会社が関与しており、その会社の関係者は「あの工場を建設後に毒ガス製造用に改造することは無理だろう」などとイギリスの新聞に証言している。

 アメリカ政府はミサイルを発射する前に、簡単にこの工場の素性を調べることができたはずなのである。だが、それをしなかった。

●「敵」を必要としたためスーダンと和解しなかった?

 なぜ、こんなことになってしまったのか。原因の一つは、攻撃の決定が、大統領と数人の側近だけで下され、米政府内のスーダン専門家などへの相談がないまま、秘密裏に実行されたことだ。

 米軍からクリントン大統領に対して、攻撃対象となりそうな候補地がいくつか示され、大統領はその中からスーダンを選んだのだが、その選択は素人判断に近かった可能性がある。また、大統領に渡された資料には、工場が民生用薬品も作っていることは、全く書かれていなかったに違いない。

 こうしてスーダンへのミサイル攻撃は、間違いであることがほぼ確実となった。スーダン国民の政府に対する不信感は、新たに湧きあがった反米意識によって、一掃されることになった。

 スーダン政府はすでに1996年から、アメリカとの敵対姿勢を変え、経済制裁を解いてもらうため、アメリカと交渉したい、と考えてきた。アメリカやサウジアラビアとの関係改善のため、スーダン政府は、1995年からスーダンに住んでいたオサマ・ビンラーデン氏に、96年秋には出ていってもらっている。

 またスーダン政府は2度にわたり、クリントン大統領に親書を送り、関係改善を呼びかけたが、何の返事もなかったという。「敵」を必要としているアメリカは、簡単にスーダンと和解するわけにはいかなかったのだろう。スーダンの人々はこうしたいきさつを知っているから、今回の攻撃で、改めて腹を立てたのだった。

 アメリカ軍が発射したミサイルの精度はすごいもので、製薬工場は完全に破壊されたが、となりにあったキャンデー工場は、無傷であったという。そうしたハイテク軍事技術のへの過信が、今回の間違いを引き起こしたのかもしれない。

 

 


その他の関連サイト

Sudan's Turabi Says Islam Now 'Entrenched'

 アメリカのミサイル攻撃でスーダンは力づいた、という趣旨の、クリスチャンサイエンスモニターの記事。9月9日付。英語。

Much manoeuvring around Sudan

 フランスの国際情勢解説誌「ルモンド・ディプロマティーク」英語版に載ったスーダン内戦の解説記事(97年8-9月号)

Analysis - Sudan: Background

 BBCによるスーダン内戦の解説記事(98年4月28日付・英語)

Sudan: Accuses Washington of new efforts to topple it

 「アメリカがスーダン政府を転覆させようとしている」Arabicnewsが載せたスーダン関連の記事。98年2月12日。

 






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