キューバのキリギリスたちにロマンを教えられた話

98年8月30日  田中 宇


 キューバ第2の都市、サンティアゴデクーバは、植民地時代の雰囲気が強く残っている街だ。人口40万人のこの街は、コロンブスが最初にキューバに来てから約20年後の1514年に作られ、その後100年近く、キューバの首都であった。

 町には、そのころからの名残りがいたるところに見られる。街には高いビルがほとんどないし、港に面した坂の多い石造りの町並みの両側には、スペイン風の赤茶色の瓦屋根の家が続いている。筆者は夏休みをとって、8月23日から27日まで、この町とその周辺に滞在した。

 町の中心になっている木立に囲まれた公園の近くに、「民謡会館」(Casa de la Trova)がある。「民謡会館」などと書くと、着物を着て三味線を抱えたおばあさんたちが、座布団を敷いて並んで座っている光景を思い浮かべてしまうが、ここはキューバである。「民謡」(Trova)といえば、欧米や日本の若者たちが大好きなカリブの音楽なのである。

 会館は、普通の家の間に建っている2階建ての目立たないものだ。入り口近くにいた人々に招かれるまま、入ってみると、奥の中庭で、普段着のおばさんが、ギターとパーカッションの演奏に合わせて歌っていた。見ている人は15人ほどで、地元の人と観光客が半分ずつ、という感じで、いくつか置かれたテーブルに座っていた。

 一曲終わると、ギターの演奏者が、おばさんに何やらアドバイスしている。どうやらおばさんはプロではなく、修行中のセミプロといったところらしい。2-3曲歌うと、おばさんは別の女性歌手と交代し、30分ほどすると、演奏していたバンドも他のアーティストと交代した。セミプロとプロが混じって、自分たちの音楽を披露する場であるようだ。

 興が乗った人々はテーブルの間で男女一組になってサルサを踊り始めた。筆者は、妻と、サンティアゴに着いて偶然知り合った日本人旅行者のKさん夫妻の4人で座っていたが、日本人は珍しいので、そこにいた地元の人々が次々に女性2人に踊りを申し込みにきた。「旦那さん、奥様をお借りしますよ」という感じで、筆者にも一言仁義を切るという、礼儀正しさである。

●4つの大陸に影響を与えた「民謡会館」

 「民謡会館」は、キューバが社会主義となった1960年代以降、各地の主要都市に作られた。キューバ人の民族意識を支える芸術振興策の一つであった。民謡会館と併設して、美術家たちのためのたまり場も作られた。

 これらの会館で演奏したり、絵を描いたりするアーティストたちは皆、政府から給料を支給されている、いわば公務員である。サンティアゴの民謡会館の前の通りには、アートギャラリーがいくつか並び、会館の2階に芸術工房で生み出された絵画や彫刻が売られている。石造りの建物が並ぶこの一帯は、雰囲気からいっても「芸術通り」なのである。

 サンティアゴデクーバは、世界的には知名度の低い田舎町だが、この町が世界の音楽界に与えた影響は巨大だ。

 「サルサ」や「チャチャチャ」「ルンバ」などのラテン音楽の源流となった「ソン」(Son)と呼ばれる歌の形式が生まれたのが、このサンティアゴを中心とするキューバ東部の地方だったからである。

 「ソン」は、キューバを植民地にしていたスペインからやってきた情緒的なメロディと、16世紀以来、奴隷労働者として西アフリカから連れてこられた黒人たちがもたらしたリズムとが融合したものだ。

 もともとは、宗教儀式のときの踊りの伴奏に使われる音楽だったが、19世紀末にポピュラー音楽となり、ラジオの普及にともなって、キューバ全体の大衆音楽となった。

 1920年代になると、キューバ人演奏家たちによって、ソンはニューヨークの音楽市場にもたらされ、「ルンバ」としてデビューする。それまでのソンは、大小の太鼓を組み合わせたパーカッション中心の音楽だったが、ニューヨークに行ってギターと、サックスやトランペットなどのラッパ類が加わった。

 ニューヨークでのこうした開花の成果は、再びキューバに還元され、キューバの音楽家たちによって、さらに磨きをかけられた。その後1960-70年代、革命後のキューバから逃げ出して渡米した亡命キューバ人音楽家たちによって、再びニューヨークにもたらされた。それが「サルサ」であった。(サルサは音楽の形式であるとともに、踊りの形式でもある)

 「ソン」はヨーロッパにも伝えられた。19世紀末、宗主国スペインに渡ったソンは、そこでフラメンコ音楽と融合した上で、アルゼンチンにもたらされ、「タンゴ」を生み出した。

 また、革命後のキューバは、西アフリカ諸国との関係を強化したが、こうした中で音楽的にもキューバと西アフリカのアーティストの間で交流が深まり、相互に影響を与え合った。キューバ音楽は、北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの4つの大陸の音楽文化に、少なからぬ影響を与えたのである。

 だから、サンティアゴの民謡会館に集まるアーティストたちは、口々に「キューバ音楽の中心地はハバナじゃないよ。このサンティアゴだ」と言うのだった。

●世界的音楽の聖地、実は飲兵衛のたかりの地

 歴史的に見ると、サンティアゴの民謡会館は、世界的な音楽の聖地ともいえるのだが、実際に会館に集まる人々は、意外とずっこけており、しみったれている。そこは、地元の飲兵衛たちが、ビールやラム酒を観光客にたかる場所でもあるからだ。

 筆者の近くに座ったおばあさんと二言三言、言葉を交わしたら、彼女は早速「ビールを飲んでいいか」ときた。3人の男たちとカタコトの会話をしたら、3杯おごらねばならなくなる。筆者は、ほとんどスペイン語ができないので、分からないふりをしたのだが。

 民謡会館だけでなく、キューバではどこでも、飲み屋やライブハウスなどで地元の人々と親しくなると、一杯おごってくれ、と言われることが多かった。

 こうした「たかりの構造」ができている一因は、キューバが米ドルと現地通貨ペソの二重経済となっているからだろう。

 かつてキューバに巨額の経済支援をしていたソ連が崩壊した今、昔ながらのペソ建ての値段で商品を売っている店の棚には、ほとんどモノがない。暗くてがらんとした店内には、店員が手持ちぶさたに座っているだけだ。まともなモノを買いたければ、ドルショップに行くしかないが、ドルは観光客の周りにしか流通していない。

 キューバでは、飲み屋のビールが1本1-2ドルぐらいだが、人々の月給をドル換算すると、10ドル前後にしかならない。キューバ人が店でビールを飲みたければ、観光客が来る店に行き、おごってもらうのが手っ取り早い方法の一つなのである。

 おごってもらうといっても、キューバの人々には、悪びれたところがない。お近付きのしるしに一杯もらう、という感じで、たかり屋というより、ちゃっかり屋と呼んだ方が近い。社会主義で、金持ちが貧乏人を助けるのが当然だ、という考え方があるためなのかもしれない。

●屈託ないキリギリスたちに巻き上げられる

 キューバ人は人懐こくて親切なのだが、その親切を受け取って付き合っていると、意外なところでお金をせびられたりする。

 筆者たちがサンティアゴの近くのブカネイロという海岸リゾートに行ったとき、同じタクシーに若い女性が乗ってきた。タクシーの運ちゃんに頼まれたので、便乗させてあげたのだ。

 ブカネイロに着いてからは、水着がないというので、筆者の妻がタンクトップの服を水着代わりに貸したりして、スペイン語が少しできる妻と親しげに話していた。

 聞けば、彼女はシングルマザーで、休暇をもらったので子どもを父親に預け、日帰りでブカネイロに遊びにきたのだという。屈託がなくて、悪い人ではなさそうだったので、一緒に過ごしたのだが、夕方の帰り際になって、帰りのタクシー代がないので、いくらかドルを貸してくれ、と言う。翌日返しにくるという約束で、10ドルを「貸した」のだが、当然のごとく、翌日には現れなかった。

 返しにこないことは意外ではなかったのだが、不思議さが残ったのは、彼女が計画的に筆者たちからお金を巻き上げたようには感じられなかったことだ。

 日帰りでブカネイロに遊びにきたことは事実で、たまたま外国人とお近付きになったので、ちょっとうまいことを言って10ドルを「拝借した」という、行き当たりばったりの行動のように思えた。筆者には、彼女のちゃっかりさは、キューバ人の一面を象徴しているようにも思えた。

 「アリとキリギリス」という童話があるが、あの物語の中で、冬になったらアリが食べ物を分けてくれると信じているキリギリスを思わせる存在である。

 とはいえ、キリギリスたちにビールなどをおごっておくと、いいこともある。

 サンティアゴに3日ほどいて、同じ街区をぶらぶらしていると、昨夜やその前の晩におごった人々が、声をかけてきた。日本人観光客は、年に20人ぐらいしか来ないとのことなので、目立つのだ。

 彼らは、安い民家レストランに案内してくれたり、今夜どこどこで演奏会がある、と教えてくれたりした。キューバでは、正式なレストランのほかに、民家がドル稼ぎのために飲食業をやっている。そういうところは、1食5ドルぐらいでおいしく食べられるのだが、税金逃れのため、看板を掲げていないので、地元の人々に教えてもらうしかない。

 (ドルを稼いでいると、売り上げの20-30%を税金として取られる決まりになっている)

●世界中の貧しい人々を支援したキューバ人

 そんなキリギリス体質のキューバの人々は一方で、他国の人々を積極的に助けようとした歴史を持つ人々でもある。

 1959年に社会主義革命を成功させた後、キューバは中南米やアフリカの貧しい国々の社会主義革命を支援する活動を始める。その先頭に立ったのが、昨年、死後30周年を機に、世界的ヒーローとなったチェ・ゲバラであった。

 アルゼンチン人として生まれたゲバラは、医学部の大学生だったときに中南米を放浪旅行し、多くの人々が極貧にあえいでいるのを見て、「自分がすべきことは医療ではなく、革命だ」と思うに至る。

 その後、彼はメキシコで亡命中のカストロと会い、キューバ革命への協力を決意し、カストロと一緒に小船に乗ってキューバに乗り込み、事前に組織され始めていたゲリラ部隊を率いて、アメリカの傀儡だったバチスタ政権を倒した。

 革命後、ゲバラは中央銀行の総裁や、産業大臣などを歴任するが、こうしたお役所仕事は肌に合わなかったらしい。中央銀行の総裁時代に、貨幣をなくそうとするなど、社会主義ロマン先行型の政策を失敗させて懲りた後、彼は公職をすべて退いた。

 そして1965年に、1000人の兵隊を率いてアフリカ・ザイールに渡り、ザイールの社会主義ゲリラを支援する。翌年には南隣のアンゴラに転戦し、ポルトガルからの独立闘争を支援した。

 その後ゲバラは、念願だった中南米大陸全体の革命運動に乗り出し、その発火点としてボリビアを選び、アンデス山中でゲリラ戦を開始した。だが、ボリビア共産党に支援を断られた上、ゲバラの動きはアメリカのボリビア駐在軍事顧問団に察知されてしまい、1967年秋、ゲバラはアンデス山中でボリビア軍に殺されてしまった。

 だが、キューバのアフリカ・中南米での革命支援活動は続き、1975年にはアンゴラを独立に導いた。アンゴラ独立後、近隣の南アフリカがアンゴラを攻撃してきたが、キューバは支援軍を増強し、南アフリカ軍を敗退させた。

 南アフリカではこの敗北以来、白人政権の弱体化が目立つようになり、その後のアパルトヘイト終了と、マンデラ政権の誕生につながった。だから、マンデラ大統領は、キューバのカストロ議長に恩義を感じている。

●ゲバラに匹敵する「七人の侍」

 人口が1100万人で、サトウキビと葉巻タバコ以外に大した産業もない小さな島国キューバの人々が、何の義理もないアフリカや中南米に出かけて行き、貧しい人々のために革命を支援する、というロマンあふれる行動力は、社会主義体制が崩壊した今もなお、人々を感動させるものがある。そして、そのロマンの象徴が、チェ・ゲバラであった。

 逆に考えれば、ゲバラが目指した社会主義が崩壊して過去のものとなり、一部の金融関係者以外の人々には何のロマンも感じられない「国際金融システム」が世界を牛耳るようになった今だからこそ、ゲバラのロマンが見直されている、ともいえる。

 ゲバラは、アリ型の理論家ではなくて、キリギリス型のロマンチストだった。彼が革命の道に入ったのも、青年時代に中南米を放浪中に出会った女性が社会主義思想を持っており、彼女を好きになることを通して、自分も社会主義を信奉するようになった、ともいわれている。キューバ人は、そんな伝説を多く持つ、格好良くて勇気があるのだが、どこかずっこけたゲバラのイメージが好きなのである。

 キューバのテレビで最近、黒沢明の映画「七人の侍」をやったらしい。それで、あちこちで人々から「日本映画は素晴らしい」「日本人は素晴らしい」と言われた。

 考えてみると、「七人の侍」の物語は、ゲバラに象徴されるキューバの世界革命支援の歴史と、似たところがある。七人の侍は、諸国放浪中の武士たちが、山賊の被害に悩む村の農民たちに頼まれて山賊と戦う話だが、武士をゲバラたちキューバ軍に、山賊を「アメリカ帝国主義」に、農民をアフリカや中南米の貧しい人々に置き換えればいいのである。

 そこに共通するものは、損得勘定を超えて人助けをする、人間味あふれるヒーローの存在である。そして、その人間味は、キューバの人々の、行き当たりばったりのキリギリス的なロマンチシズムに支えられているように思う。

 また逆に、ゲバラの物語と、「七人の侍」が似ていると気づいたとき、寡黙に働くだけの「アリ」の国だと思っていた日本にも、実は世界的に通用するロマンを生み出す力があるのだ、と思い至り、うれしくなった。

 筆者らがキューバの人々におごってあげた何杯かのビール、それから10ドルの「貸したタクシー代」などは、アリからキリギリスへのささやかな友情のしるしともいえる、などと思い直した。

 キューバ滞在中は、熱帯の暑さと、人々の過剰な親切がうっとおしかった筆者ではあるのだが、日本に帰ってこの文章を書いていると、またキューバに行きたくなっている自分に気づいた。





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