中東和平の頓挫とともに沈む国、浮かぶ国:ヨルダンとシリア98年8月17日 田中 宇 | |
中東のヨルダンとシリアは、隣どうしにあり、両方ともイスラム教徒のアラブ人を中心とした国でありながら、その政策は対照的だ。 イギリスの植民地だったヨルダンは親米政策をとり、イスラエルと和平関係にある中東では数少ない国の一つだ。一方シリアは、フランスの植民地から独立し、冷戦時代はソ連寄りの立場をとっていた。アメリカからはテロリスト支援国家の烙印を押され、イスラエルとは1967年の中東戦争以来、対立関係にある。 冷戦が終わり、世界中で市場経済化が進む中、ヨルダンは経済開放策と緊縮財政をとり続け、IMFから「中東の優等生」と呼ばれるようになった。半面、シリアは社会主義体制から抜け出せず、このままではじり貧ではないか、と思われていた。 だが最近では、両国のそんな状況は逆転しつつある。ヨルダンの未来に暗雲が垂れ込めてきた一方で、シリアはフランスやロシアとの関係を改善し、アラブ諸国とイスラエル、欧米やロシアが関与している中東外交の、中心の一つになりつつある。 ●まぼろしだったヨルダンの経済成長 逆転現象の一つは、ヨルダン政府が最近、以前に発表した経済成長率を大幅に下方修正したことだ。ヨルダンの経済成長は1996年が5.2%、昨年は5.0%のはずだった。ところが、実は96年が0.8%、昨年は2.7%であることが分かった、というのである。 ヨルダン政府によると、以前に発表した数字は概算値であり、その後細かく計算したところ、下方修正することになったという。だが理由はどうあれ、実はヨルダンはIMFの優等生などではなかったということが分かってしまった。 こうした発表と呼応する形で、ヨルダンでは生活が楽にならない人々の不満の声が大きくなっている。今年2月には南部の町で暴動が起きている。暴動のきっかけは、アメリカがイラクを攻撃しようとしたことへの抗議だったとされている。そういった反米、反イスラエル的な抗議行動は、他のアラブ諸国同様、政府からある程度は大目に見られる。 だが実は、暴動には隠された抗議内容があり、それは政府が財政緊縮のため、食料品に対する補助金を廃止するなど、貧しい人々を苦しめている一方、政府高官の汚職があっても取り締まらないことに対する反発だった、ともいわれている。ヨルダンでは、内政や王制に対する批判はタブーだ。1992年まで戒厳令が敷かれていた影響が、今も残っているのである。 ヨルダンの失業率は、政府の発表だと14%だが、内外の経済専門家によると、実際は30%前後と考えられている。しかもIMFの求めに応じて、公務員の削減を決めているので、失業率はさらに増えそうだ。 ヨルダン経済の不安定さは、経済を周辺諸国との関係に頼らねばならないところからきている。ヨルダンは東から、サウジアラビア、イラク、シリア、イスラエルと接しているが、これらの国々は相互に対立しており、あちら立てればこちら立たず、という難しさがある。 1991年に湾岸戦争が始まるまでヨルダンは、唯一の港である紅海に面したアカバ港から、産油国であるイラクへと輸送される商品を取り扱ったり、サウジアラビア、クウェートなどペルシャ湾岸諸国の出稼ぎ労働者から本国の家族への送金が、大きな収入となっていた。 だが、状況は湾岸戦争で一変する。ヨルダンは湾岸戦争でイラク側につき、その後、サウジアラビアやクウェートから仕返しの経済制裁を受けることになる。しかもイラクは国連の経済制裁を受け、アカバ港も開店休業状態となってしまった。 さらに、今年2月にアメリカとイラクが対立した際は、前回の教訓からアメリカ側についたため、こんどはイラクから嫌われることになった。そのため今後、イラクに対する経済制裁が解除されても、イラクはシリア経由の輸出入を増やすだけで、以前のようにヨルダン経由の物流が再び増えることはない、と予測されている。 ●オスロ合意バブルの崩壊で巻き添え もう一つ、ヨルダンにとって悲劇だったのは、1993年に結ばれたオスロ合意体制が、昨年から崩れてしまったことだ。オスロ合意は、イスラエルとアラブが和解することによって、平和になった中東に欧米企業が進出して経済発展を実現し、すべての関係国が「平和の配当」を受けとる、というシナリオだった。 この合意に基づいて、ヨルダンは1994年、イスラエルと和平条約を結んだ。オスロ合意はパレスチナ人による独立国家を作る計画で、ヨルダンは独立したパレスチナやイスラエルとの貿易を盛んにして、経済発展を実現する、という構想であった。 ヨルダン国民の半分はパレスチナ人で、数次にわたる中東戦争でイスラエルに占領されたパレスチナからヨルダンに逃れてきた人々だ。(今はイスラエル占領地になっているヨルダン川西岸はもともとヨルダン領だった) だからパレスチナ独立国家ができれば、最も深い関係を持つのはヨルダンだつた。 だが、すべては1995年のラビン首相暗殺によって流れてしまう。その後選出されたネタニヤフ首相は、オスロ合意を無視して、占領地からの撤退を先延ばしにしている。 イスラエルは1994年時点では、ヨルダンとパレスチナの国境をヨルダン人にオープンにすると約束したが、ネタニヤフ首相はそれを守っていない。ヨルダンとパレスチナとの間の経済交流は、パレスチナ・ヨルダン国境の交通を制限しているイスラエル軍によって阻止されている。 「平和の配当」はまったくないまま、オスロ合意というシステム自体が崩壊しようとしている。アメリカ人の言葉を信じてイスラエルと和解し、IMFの言うままに経済を自由化した挙げ句が、失業の増加と経済成長の鈍化であった。 ●王位継承をめぐる宮廷内紛の懸念も さらにヨルダン人の不安を誘っているのが、フセイン国王のガンである。62歳のフセイン国王は7月下旬、入院中のアメリカの病院からヨルダン国民に向けて、テレビを通して自らガンについて発表した。薬によって散らせる種類のものだから心配いらない、という内容だったが、それまで安定していた通貨ヨルダンディナールの相場は急落した。 フセイン国王は1952年以来、46年間もヨルダン国王をつとめている。現役の国王としては、おそらく世界で最も長く王座にいるのではないか。ヨルダンは近代になってから人口が急増した国で、国民の90%はフセイン国王以外の王様の時代を経験していない。 国王が17歳で即位したとき、ヨルダン国民の3分の2は文盲だった。今では文盲率は15%と、中東で2番目に低い水準にまで下がった。ほこりっぽい小さな町だった首都アンマンは、ビルの立ち並ぶ人口100万人の近代都市になった。ヨルダンは、フセイン国王の政治力によって成長した国であった。 国王の後継者は、弟のハッサン皇太子なのだが、皇太子は国王ほどのカリスマ性を持っておらず、それが国民の懸念になっている。イスラエルやイラクなど、アクの強い周辺諸国との関係をこなしながら、アラブ世界の特徴である内外からの政治的陰謀を乗り越えて小国ヨルダンがここまでこれたのは、フセイン国王の手腕があったからだとされている。 しかも国王には3人の息子がいて、宮廷の人々の中には、弟ではなく息子の中から選んでほしい、特にお父様と気質が似ている末っ子のハムゼ王子(18歳)を跡継ぎにしたい、と考えている勢力がある。 フセイン国王が病状を悪化させる前に、早々と王位をハッサン皇太子に譲れば、もめずにすむだろうが、そうしなかった場合、宮廷内で醜い跡継ぎ紛争が起きる可能性がある。 ●22年ぶりにフランスに招待されたシリア大統領 中東和平交渉の挫折とともに国の存亡が危なくなってきたヨルダンとは逆に、シリアの場合、和平の挫折が追い風となっている。 シリアのアサド大統領は7月中旬にフランスを訪問し、シラク大統領と会談した。フランス訪問は22年ぶりのことで、欧米の外交関係者の注目を集めた。 シラク大統領は、イスラエルがシリア領だったゴラン高原を1967年の中東戦争以来占領していることについて、イスラエルの即時無条件撤退を求めるシリアの主張を支持すると表明した。 これは、フランスの外交政策の大きな転換であった。昨年オスロ合意の実行が頓挫して以来、欧米の政府は合意を守らないイスラエルに対する不満をつのらせてきたが、フランスはシリア支持の表明することにより、反イスラエルの立場を以前よりはっきり示した。また、フランスはアメリカとは違う外交上のアイデンティティを欲しがった、という面もある。 アサド大統領が、フランス訪問によって他に何を得たか発表されていないが、おそらくフランスは、社会主義体制を引きずって改革が進まないシリア経済のテコ入れ支援を増やすことを約束したのだろう。 シリアは昨年以来、イラクとの関係を改善させている。イラクへの経済制裁が解除されれば、イラクの石油はシリア経由でヨーロッパに輸出される可能性が大きいが、その際、シリアと仲良くしておけば、フランスの石油会社がその利権を手にすることができる、というわけだ。(シリアはイラン・イラク戦争の際、イラン側に立ったため、イラクとは敵対関係が続いていた) またシリアは、かつて仲が良くなかったサウジアラビアとの関係も改善させている。イスラエルがアメリカの言うことすら聞かなくなっている今、アラブ諸国のリーダーたちから見ると、イスラエルに対して一貫して強硬姿勢を取り続けてきたアサド大統領への信頼感が増していることが、こうした動きの背景にある。 とはいえシリアは長年、閉鎖的な社会主義体制を続けてきた。アサド大統領は、アラウィ派イスラム教徒という、シリアの人口の12%しかいないマイノリティの出身ながら、軍人として頭角をあらわして権力を握り、1971年以来27年間の長期政権を維持している独裁型の人だ。そのためシリアは公安警察の力が強く、言論の自由もなく、政治犯も数多くいるといわれている。 シリアがすぐに自由経済の国になるとは思えない。両国の経済は、今後も中東和平など、政治の風向きに大きく左右されつづけるだろう。
関連サイトヨルダンの王室について解説している英語のサイト。 ウエブサイト「るうな邸」にある、1997年11月の旅行記。 Erin's Homepageにある旅行記のシリア編。1989年のもの。
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