大中華の未来を築けるか:変容する台湾問題

98年7月7日  田中 宇


 サントメプリンシペという国名を聞いて、それが世界地図のどの辺にあるかを知っている人は、かなりの国際事情通か地図おタクだろう。サントメプリンシペはアフリカ西海岸の赤道直下、大西洋上に浮かぶ島々からなる、人口約10万人の小国である。

 中国(中華人民共和国)が、アメリカからクリントン大統領を招き、世界中から注目されていたのと同じ時期に、台湾(中華民国)は、サントメプリンシペ大統領の訪問を受け入れていた。

 たまたま同時期の訪問となった、ともいえる。だが筆者には、アメリカとサントメプリンシペという、中台両国が招いた二つの国の差はそのまま、中国と台湾の現在の外交力の違いを表している、と感じた。

 中国と台湾はここ数年、南アメリカやカリブ海諸国、アフリカなど、世界各地の発展途上国を、一つでも多く自分の側につけようと、し烈な外交競争を展開してきた。

 最近の「主戦場」はアフリカだ。台湾と中国は小さな国々に対して、競って経済援助や低利融資を注ぎ込み、各国のリーダーたちに気前よくプレゼントを渡したりしている。

 この勝負、中国の優勢が次第にはっきりしてきている。昨年には南アフリカが台湾と国交を断絶し、中国との国交を樹立したのに続き、西アフリカのギニアビサウ、ニジェールなどの国々が次々に台湾と縁を切り、中国側についている。

 ニジェールなどは1992年に中国側から台湾側に移った後、96年には再び中国側に寝返っている。また台湾政府によると、中央アフリカ共和国などは、台湾に対して新たな融資を求め、断られるや、中国と国交を結んでしまったという。

 そしてクリントン訪中は、中台の外交競争の上で、中国側の大量得点になった。アメリカから中国には大統領が行くが、台湾には現職の米政府職員が公式訪問することは、現在の米中関係からみて、ほとんど不可能となっている。

●米大統領訪中のたびに後退させられた台湾

 1972年のニクソン大統領の訪中以来、アメリカ大統領の中国訪問は、ことごとく台湾にとって不利、中国にとって有利な結果となってきた。そして今回のクリントン訪中もまた、台湾の当局者たちを暗い気持ちにさせるものだった。

 台北にある台湾の外務省には、クリントン訪中対策室が作られ、24時間体制でアメリカ政府訪中団の発言や足取りを追った。北京での大統領記者会見で、台湾問題について全く発言がなかったこところまでは、台湾当局者をほっとさせる展開だった。

 だが、クリントン大統領の爆弾発言はその後の6月30日、上海で出た。上海の各界代表者との座談会の席上、クリントン氏は、台湾の独立を支持せず、政府にしか加盟資格がない国際機関に台湾が入るすることはできないと考える、とのアメリカの立場を表明したのである。

 アメリカ大統領が、台湾に対する政策をここまで明言したのは初めてだった。台湾の外務省はこの発言に対して「言う必要のないことを、なぜ言わねばならなかったのか」と、怒りの声明を発表した。

 このクリントン発言は、何気ない風を装って行われた。だが実は、周到な準備と計算、中国側との事前の交渉も踏まえた上での表明だった可能性が強い。

 かねてからクリントン訪中に批判的な記事を載せる傾向があったアメリカのロサンゼルスタイムス紙は、7月1日の記事で、クリントン氏の台湾発言が飛び出した6月30日の座談会の様子について、興味深い記事を載せている。

 それによると、座談会当日になって、上海在住者の8人の出席者のうち、一人が差し替えられた。当日までエドワード・ツェン(Edward Zeng)という若手企業家が座るはずだった席に、上海にある復旦大学で米中関係と台湾問題を研究している学者、ウー・シンボー(Wu Xinbo)氏が急きょ、座ることになった。

 この変更は事前にツェン氏本人にも全く知らされず、ツェン氏は当日会場に着いて始めて、自分のネームプレートだけが用意されていないことに気づいたという。そして、代わりに出席したウー氏の質問から、クリトン大統領の爆弾発言が引き出された。

 この座談会は、当日の気さくな雰囲気とは裏腹に、実は半年前から入念に計画されたもので、事前のリハーサルを2回もやっていた。当日に突然、出席者が交代するのは異常だった。しかもウー氏はクリントン訪中の1ヶ月前に、ワシントンを訪れている。

 ウー氏は座談会の後、「彼(クリントン氏)は、(台湾問題について)発言できる機会を待っていたのではないか。私はその機会を差し上げただけだ」と述べたという。

●中国重視を少しずつ表明したいアメリカ

 実はクリントン大統領が述べたことは内容的には、昨年10月に江沢民国家主席が訪米した際に、アメリカ政府が打ち出した台湾政策を踏襲しただけである。だが、ニクソン訪中以来、アメリカの台湾政策ははっきり語られないものだっただけに、クリントン氏が中国滞在中に発言したことのインパクトは大きい。

 ここからは筆者の見方だが、クリントン大統領は、アメリカが次第に台湾より中国を重視するようになっているということを、少しずつ表明していこう、と考えているようだ。

 アメリカが台湾政策を一気に変更したら、時間をかけて交渉しようとしている中台関係を破壊するし、台湾からアメリカへの武器購入代金も入ってこなくなる。アメリカ国内の政局も、台湾とつながりの深い共和党によるスキャンダル掘り起こしなど、クリントンたたきが一気に強まるだろう。

 今回の訪中前も、クリントン政権が中国に軍事ミサイル技術を漏らしているという疑惑が取り沙汰された。疑惑の煙をこれ以上立てないよう、クリントン大統領は中国側の軍事関係者と会ったり、軍事施設を訪問したりすることを控えねばならなかった。クリントン訪中を機に、米中間の軍事協力が進展する可能性もあったのだが、それは実現せず、台湾にとってはミサイルスキャンダルがプラスとなった。

 今回のクリントン発言は、これ以上台湾政府や共和党を刺激せぬよう、政治の中心地である北京ではなく上海で、しかも中国政府要人との共同記者会見などではなく民間人との座談会という、非公式に近い場所で行われたのだろう。

 中国政府は、クリントン大統領が中国滞在中に台湾政策について明言することを望んでおり、アメリカはその要求を満たしたのだった。

●アメリカの台湾政策は「敵の敵は味方なり」戦略の産物

 ところでなぜ、アメリカ政府の台湾政策はこれまで、はっきりと語ることのできないものだったのだろうか。それを考えるには、歴史を振り返る必要がありそうだ。

 1972年のニクソン訪中、それから79年の米中国交樹立は、ソ連に敵対するアメリカが、同じく反ソ連の立場をとるようになった中国と結びつくという、冷戦時のアメリカの戦略として重要だった。

 だがアメリカにとっては、中国もまた社会主義国であり、封じ込めが必要な対象であった。そこでアメリカは、表向きは台湾との関係を切って中国に乗り換えながらも、台湾との実質的な軍事関係は切らず、その後も台湾に武器輸出を続けた。

 中国はこうしたアメリカの二面戦略に怒ったため、アメリカの台湾政策は当局者がはっきり語ってはならないものとなった。

 1990年代に入り、冷戦終結とともに、こうした関係の前提条件が崩れた。台湾の国民党は、第二次大戦中に日本と戦った際、アメリカから多くの軍事支援を受けて以来、アメリカ中枢、特に議会との太いパイプを維持し続け、ロビー活動によってアメリカを動かす力を持っていた。そのため、冷戦崩壊後も、アメリカの台湾支持は崩れなかった。

 しかも、冷戦終結後にアメリカから用済みとされることを防ごうと考えた台湾は、アメリカ張りの民主主義体制を作ることに力を注ぎ、1996年には初めての大統領(総統)直接選挙を実施するに至った。

 こうした動きはアメリカの当局者と国民に好感を持たれ、ロビー活動の強さとあいまって、1996年の選挙の際に中国が台湾海峡で軍事演習を行って威嚇した際に、アメリカは空母を周辺海域に派遣した。

 だがその後、昨年からのアメリカ政府の動きは、それまでと違うものとなっている。台湾より中国を重視する傾向が強まりつつある。

 これは、全世界を自分たちだけで切り盛りすることは手にあまると考えたアメリカが、東アジアの安定を維持する役目の大国として中国を位置づけ、アメリカのアジアでの負担の一部を中国に肩代わりしてもらおう、と考えているのではないか、と筆者には思える。

 アジアの大国としては日本があるが、日本は第二次大戦で無茶苦茶をやって以来、外交能力を喪失したまま50年以上過ごしてしまったので、アジア広域の安定を維持する外交手腕を持っていない。

 中国は500年前まで、世界最強国の一つだったから、歴史的に見て、外交手腕はある。クリントン大統領が訪中の出発点を古都西安(昔の長安)と決めたのも、かつて世界大国だった中国の歴史を尊重します、というアメリカの意思が感じられる。

 また、クリントン大統領が中国だけを訪問し、日本など周辺国には全く立ち寄らなかったことも、通常の歴訪とは違うんだ、という意思表示となった。クリントン大統領が中国だけ訪問して日本には寄らない、と発表したとき、日本政府はずいぶん慌てたようだが、結局のところオルブライト国務長官がアメリカに帰る前に東京に立ち寄り、日本政府をなだめる、という形になった。

●選挙結果次第で台湾を攻撃?

 中国と台湾の交渉は冷戦崩壊後の1993年に始まった。その後台湾が独立傾向を強め、1995年に李登輝総統(大統領)の訪米に対してアメリカがビザを発給したため、中国側が怒り、交渉をすべて止めてしまった。台湾の独立とは、台湾が中国大陸とは別の国として独立宣言をするということである。

 李登輝氏の訪米は、私的なものと銘打っていたが、中国政府はこれを、アメリカが台湾を独立国のように扱おうとしている、ととらえた。李登輝総統はそのころ、私的な訪問という形でヨーロッパや中東などを訪問し、台湾に対する国際認知を高めようとしており、中国側は警戒感を強めていた。

 その後、中台交渉は現在まで再開されていない。だが最近では、かつて席を蹴って交渉を止めたはずの中国側が、交渉再開を強く望むようになっている。

 台湾では、1996年の総統選挙で民主主義が実現して以来、人々が望むなら独立宣言をすべきだと考える民主進歩党(民進党)が政権を取る可能性が強くなっている。

 中国としては、いったん台湾に独立宣言されてしまうと、武力進攻する以外に台湾との「統一」を成し遂げることができなくなる。2000年に実施予定の台湾の次回総統選挙には、陳水扁・台北市長が民進党から出馬する予定だが、陳氏は人々の間で人気が高いことで知られる。

 台湾の与党国民党もまた、公式には台湾独立を掲げていないものの、主席である李登輝総統は「隠れ独立派」と言われ、中国側との交渉に消極的だ。現在の国民党の立場は、中国との交渉の場を持つのは歓迎だが、議題は、現在は香港や沖縄経由となっている台中間に直行航路を設けることや、台湾海峡の漁業権など、統一問題の核心には触れない部分に限る、というものだ。

 中国側としては、台湾で民進党政権ができる前に、台湾を独立できない形勢にしておきたいところだ。そのため、昨年10月に江沢民主席が訪米して以来、中国がアメリカに求める第一のことは、台湾の独立傾向を弱め、対中交渉の席につくよう、アメリカが圧力をかけることになった。

 江沢民主席が訪米した際、クリントン大統領は記者会見で、「中国と台湾はできるだけ早く、相互の対立を解決するよう望む。解決は、早ければ早いほど良い」と述べた。これは、今回の上海での発言の伏線ともいえる、最初の兆候となった。

 その後、中国の要請に応える形で、今年1月には、ペリー元国防長官など、何人かのアメリカ人有力者が台北を訪問し、台湾当局者にアメリカの意志をやんわりと伝えた。

 その意志とは、(1)台湾が独立宣言した場合、もし中国が攻めてきても、アメリカは台湾を防御しない。(2)台湾はなるべく早く、中国との対話を再開してほしい・・・というものだった。

 国民党としては、今後10-20年たって中国が完全に民主主義国となったら、そのときに統一すればよい、と考えている。世論調査でみると、台湾の人々の多くも、そのような考えのようだ。中国は以前と比べてかなり速いスピードで政治改革を断行しようとしている。20年後は、今から予測もつかないような変化を遂げている可能性が大きく、台湾側はそれを期待している。

 だから、アメリカが台湾に「早く中国と交渉せよ」と言うことは、中国側の意を汲んだ圧力であると、台湾側からは受け取られるのである。

●国共対立を止揚する「大中華圏」

 とはいえ中国も、すぐに台湾を併合することができるとは考えていないだろう。台湾に武力進攻したら、中国が築きつつある国際的な信用が失われてしまう。中国側はこれまで、社会主義の中国大陸と資本主義の台湾という二つの制度を持った一つの中国(一国両制)を作ることを、台湾問題の原則としてきた。そこでの「一つの中国」とは、中華人民共和国を意味しているため、台湾側の同意を得られなかった。

 だが最近では「一つの中国」とは、中華人民共和国ではなく、「大中華圏」というような、もっと大きな概念を指す、という方針に転換しつつあるようだ。また台湾側が主張してきた「一国二府」という言い方もある。これは、一つの中国に、北京と台北という二つの政府があってもよい、という考え方だ。

 これらはつまり、制度的には現状維持ということである。現在ではすでに、たくさんの台湾企業が福建省など大陸側に進出しており、経済的にも現状維持が好ましい状態になっている。

 最近では、フランス革命以来、人類の頭を支配していた「国家」へのこだわりが薄れ、欧州統合など、国家の範囲を超えた思考が世界中に広がりつつある。中国も、中華人民共和国という一つの国家にこだわるより、「中国人」「中華経済圏」といった、大きな枠組みで考えた方が、未来を先取りしているといえる。

 このような新しい考え方に立てば、中国共産党と国民党との歴史的対立もまた、止揚されてしまう。アジアの政治的資産といえる台湾の民主主義も、壊さずにすむ。こうした思考の方が、今後アジアの大国になっていくであろう中国(または大中華圏)にとって、ふさわしいのではないか、と筆者は思う。

 





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