国家破産の危機に陥るロシア98年6月4日 田中 宇 | |
かつてのソ連は、モスクワの権力者が国民の行動すべてを管理・監視する国として知られていた。だが今のロシアは、それとは正反対の状態にある。 ロシア経済のうち、政府が把握しているのは全体の半分前後でしかなく、残りは経済統計にも載らず、政府が税金をとることもできない「地下経済」になっている。「地下経済」というと恐ろしく聞こえるが、要は「蚤の市」や「バザール」のたぐいだ。 ロシア企業はソ連時代、政府が製品の販売先を決めてくれていたが、ソ連崩壊後は自分で営業しなければならなくなった。だが、国家経済システム全体が廃虚と化しているため、売り手と買い手がスムーズに取り引きできない。そこに登場したのが、ブローカーが活躍する地下経済システムだった。 今では従業員に給料が払えない企業が多く、給料代わりに自社製品を渡したりしているが、それらの製品もバザールで売られ、地下経済に吸い込まれていく。 最近の世界経済は、政府の規制をなるべく少なくして企業の行動に対する制限を減らし、税金も低くなる方向にあるので、見方によってはロシア経済は世界の最先端を行っているともいえるかもしれない。 ●アジア危機の意外な深刻さがロシアに飛び火 とはいえロシアは今、地下経済が大きすぎることから、経済破綻の危機に瀕している。政府が税金を十分に集めることができないため、国営企業の従業員に給料を払うこともできず、国家機能があちこちで停止してしまっている。 その窮状に輪をかけたのが5月後半以来、欧米の経済関係者の間で「アジア経済危機は予想より深刻で長引きそうだ」という見通しが強まったことだった。 韓国では経営難に陥る企業がさらに増えそうだし、国民の我慢も限界に達してストライキがあちこちでおきている。日本も失業率がアメリカ並みに高くなったし、円安も進んでいる。中国は国営企業の経営難から脱却できる見通しが立たない。インドネシア経済も、スハルト大統領が辞めただけでは解決しないことが明らかになった。 こうしたことを背景に、5月27日には世界各地の株式市場が急落した。そのあおりを受けて、ロシア経済に対する投資家の危機感も一気に強まり、モスクワの株式市場はその日、11%も下落した。欧米や日本から投資されていた資金を引き揚げる動きが広がり、資金流出を食い止めるため、ロシア中央銀行は公定歩合を50%から150%に引き上げた。 ロシアの公定歩合は、昨年秋から今年5月中旬まで20-30%で比較的落ち着いていたが、その後1週間で5倍になってしまった。 今回はロシアだけでなく、ブラジルやトルコなどに投資された資金に対しても、流出圧力が強まっており、アジア発の通貨危機が全世界へと広がる恐れも出ている。 ●ロシアの石油利権を安く手に入れる欧米 そんな中でロシアの危機が特に深刻化したのは、政府が税金を集められないことのほかに、いくつかの背景がある。 一つは、国際石油相場が低迷していることだ。石油価格の低迷は、産油国イラクへの経済制裁が解除されそうなことや、アジア経済危機で石油消費が減ったことなどが背景にある。ロシアは主要な産油国で、石油輸出は大事な外貨収入になっている。原油安でその収入が減ったことは、ロシアにとって打撃となっている。 さらにその影響で、5月27日に行われた大手石油会社「ロチネフチ」の民営化のための入札では、入札者がいなかった。ロシア政府はロスネフチを21億ドル以上で売ろうとしたのだが、入札者となりそうな欧米の機関投資家は、最近の石油価格からみて、それは高すぎると判断したのだった。この入札の不調も、ロシアに対する幻滅を煽ることになった。 ロシア政府は今後、ロスネフチの最低売却価格を16億-17億ドルに引き下げて、再度入札を実施する予定だ。とはいえ、ロシア政府にはそれだけの収入があっても、それを2週間ぐらいで使ってしまう可能性がある。 というのは、ロシア中央銀行はこのところ、欧米投資家(投機家)が通貨ルーブルを大量売却していることに対抗するため、ルーブル買いドル売りの市場介入をしているのだが、その出費は最近10日間で15億ドルに達したからだ。 このむなしいルーブル防衛の努力によって、欧米の資本は安くロシアの石油利権を手に入れることができる、というシナリオが実現しつつある。 ●IMFの「借金取り」政策の欠陥 ロシア中央銀行の金庫にある外貨は、昨年10月の230億ドルから、今では140億ドルにまで減っている。今後、外貨が底をついたらどうなるか。外国資本にルーブルを買ってもらい資金流出を防ぐには、通貨切り下げを行ってルーブルの価値を下げるしかない。 だが切り下げを実施すれば、その分物価高となるので、国民生活を直撃することになる。給料未払いが続いた上、激しい物価高が追い討ちをかければ、国民の不満は爆発するだろう。切り下げは、非常に危険な結果を招きかねない。 一方IMFでは、現在60%前後にとどまっているロシア政府の徴税率を高めるよう、圧力をかけ続けている。IMFは「徴税率を高めないと約束した経済援助を実施しない」という姿勢をとっている。 IMFの要求を受け、ロシア政府は税金を払わない大企業への制裁を厳しくする措置をとっているが、効果があがらないどころか、逆に徴税率は過去2ヶ月間、下がっている。そもそも「税金を払わない奴は厳罰だ」というIMFの命令自体が間違っている可能性が高い。 経済のかなりの部分が地下経済となっている以上、税金を無理に集めようとしても、機敏な経営者はますますヤミに生きる姿勢を強めるばかり。むしろ税率を下げ、薄く広く取るしくみをゆっくりでもいいから作り上げた方が良い、と主張する専門家もいる。 IMFは経済理論の専門家集団ではあるだろうが、政治や社会情勢については、必ずしも詳しくはない。インドネシアに対して経済の引き締めを迫るばかりで、結局暴動を引き起こしたのも、経済理論先行でインドネシア社会のメカニズムについて理解が足りなかったからだと筆者は考える。ロシアでも似たような事態を招きかねないのである。 ●ロシアがコケればIMFが儲かる・・・ しかもロシアの徴税率は、今後も上がらない可能性が大きい。エリツィン大統領は、今回の経済危機を乗り切るため、ロシア経済を牛耳る大企業のオーナーたちと会談し、資金をロシアから逃避させぬよう要請した。 企業家たちは表向きは愛国心からこの要請に応じる、という姿勢をみせたが、実のところは自分たちが支払うべき税金をまけてもらったり、過去の滞納分を支払わずに済ませるといった条件を出している可能性が強い。経済界からの助力を得ようと思ったら、厳しい態度で税金を集めることはできないのである。 IMFはこうしたからくりを知っているだろうが、見て見ぬふりをしている。というのはIMFには、「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、ロシア経済危機を通じて実現したいことがあるからだ。アメリカからカネを引き出す件である。 IMFはアメリカ政府に対し、180億ドルの追加出資を要請しているが、議会の強い反対を受けている。保守系の共和党議員からは「IMFが破産しそうな国や企業を助けることは、経済の市場原理に反する」と言われ、革新系の民主党議員からは「IMFは富める国の金融機関を助けるために、貧しい国の庶民を苦しめている」と批判されている。 だが、対ロシア支援となれば、わけが違う。今ロシアを支援しなければ、アメリカが手なずけてきたエリツィン政権が倒れ、再び反米色の強い政権が生まれるかもしれない。ロシアが混乱すれば、核兵器の製造技術が「テロリスト国家」の手に渡るかもしれない。ロシアがコケれば東欧諸国の金融も連鎖破綻するだろう・・・。 などなど、IMFはアメリカ議会を説得できる可能性が強まる。ロシアが核保有国だというだけでも、対ロシア支援は経済原則を超えた政治的なテーマとなる。核兵器とは、保有者にとって何と便利な道具だろう。 ●北方領土を「買い戻す」チャンス? このほか、5月にシベリアの炭鉱労働者が未払い分の給料支払いを求めてストライキをおこし、シベリア鉄道の線路に座り込んで列車を止めてしまったことも、ロシア経済にとってマイナス要因だ。 ロシアの人々は、長い人で2年近くも給料や年金を受け取っていないが、我慢強いといわれるロシア人の忍耐も、いよいよ限界に達しており、今後社会不安が深刻化する可能性がある。 また、昨年までロシアに盛んに投資していた韓国が、もはやそんな余裕を失っていることもある。韓国はロシアから北朝鮮への軍事支援を止める狙いもあり、ロシアに積極投資していた。 韓国が頼れないなら、その隣の日本はどうか。北方領土の返還をちらつかせれば、日本も国を挙げてロシア支援をしてくれるのではないか、と考えて、エリツィン大統領は今年4月に訪日した。 その時は、徐々に日本からのロシア支援を増やす方向で一致したのだが、今回の経済危機で、ロシアにはゆっくりやっている余裕はなくなっている。外交が下手な日本のこと、平時なら北方領土を取り戻すためには巨額の支援をロシアに行ってなお、最終的に空手形で終わっていたかもしれない。 ロシアの人々はこのところ民族意識を強めており、小さな島4つでも日本の「侵略戦争」に勝って取ったという意識がある以上、返還には強い抵抗がある。だが、今後ロシアの危機が深刻化したら、その時こそ大規模なロシア支援を打ち出して北方領土を「買い取る」チャンスだ、と筆者は思うのだが、どうだろうか。
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