レバノン:戦争とは巨大な地上げなり

98年4月22日  田中 宇


 読者の皆さんは、遺跡からものを盗み出す「盗掘」をしたことがあるだろうか。筆者は先日、中東の国レバノンの首都、ベイルートに行ったとき、あやうく「盗掘」をしてしまうところだった。

 ベイルートでは、1975年から92年まで17年間続いた戦争で、街の中心部、旧市街がすっかり破壊されてしまった。地中海に面した旧市街では今、戦後復興が始まり、廃虚の残骸を片づけ、ビル建設が進んでいる。

 ベイルートには、今から4000年以上前から人々が住んでいたので、地下階のあるビルを作ろうと思うと、必ず古代の遺跡に当たってしまう。ベイルートの戦後復興は、欧米からの資本が入っているので、遺跡が出たら発掘調査をしなければならない。(ギリシャ、ローマ文明は欧米人の歴史的アイデンティティだ) それで、旧市街の5ヵ所ほどで、発掘調査が行われていた。

 筆者がレバノン人の知人に連れられて旧市街を訪れたのは、ちょうど日曜日で、発掘現場には誰もいなかった。50メートル四方ぐらいの場所を、現在の地表から3メートルほど掘り下げ、ローマ時代の建物の礎石が出土していた。横倒しになった石の円柱や、それを支えていた石の台も、ころがっていた。

●地下に眠る「文明の海苔弁当」

 気がつくと知人が、掘り下げてある遺跡の側面の土壁から、小さな破片を引き抜いては、チェックし始めていた。陶器の破片には、緑や茶色で模様が描かれており、博物館にある、古代の食器の模様によく似ていた。地表から2メートル以上の深さのところに刺さっているので、古代のものに違いない。

 地震か戦争か、原因は分からないが、この古代の建物が崩壊したときに、そこで使われていた皿や壷がすべて割れて、破片が地層の一部になっているのだった。

 ガラス容器の破片もあった。ガラスは、青味がかった透明で、奈良の正倉院に大事にしまってあるガラス器と、似たような光沢を放っていた。古代、世界文明の「田舎」であった日本で、国家の財宝とされたガラス瓶も、文明の中心だった中東では、上流階級の家なら普通に置いてあるものだったのかもしれない。(隣国シリアでは、古代からガラス加工が盛んだった)

 今、発掘が進められているローマ時代の遺跡のさらに下には、ギリシャ時代や、さらに以前の遺跡が眠っている、と推定されている。古代の遺物がつぶれて層になったものがいくつも積み重なり、海苔とご飯の層が順番に重なっている「のり弁当」のような状態になっていた。

 そして今、1992年までの戦争で破壊された場所に、もう一度新しい街が作られようとしている。文明の「のり弁当」作りは、現在も続いているのだった。

●山にこもって歴史の荒波に抵抗した少数民族

 レバノンは、中東の地中海岸にある、岐阜県ほどの面積の小国で、人口も350万人しかいない。西は海に面しているが、狭い平野を横切ると、すぐに1000-2000メートル級の山岳地帯となり、冬には雪におおわれる。

 「レバノン」という国名は、古代に使われていたアラム語という言葉で「白いもの」を意味しているという。雪のことである。年中暑い国が多い中東では、雪は珍しいものであるだけに、雪が積もっているだけで、レバノンの国名は「雪国」という意味になった。

 山が多いレバノンは昔から、時の権力者の支配が及びにくい場所で、いくつもの少数民族が住んでいる。そしてその存在が、レバノンの政治的な特長であり、また弱点にもなった。

 その最大のものは「マロン派キリスト教徒」と呼ばれる人々だ。マロン派とギリシャ正教、カトリックなどとの違いは、「イエス・キリストは人間か神か」という部分の教義についてであるらしい。

 とはいえ筆者が思うに、マロン派の人々のアイデンティティの重要な部分は、そうした教義の違いではない。キリストの死後にできた、さまざまな宗派のキリスト教勢力が、4-5世紀にギリシャ正教などに統合された時も、その後7世紀にマホメットがイスラム帝国を打ち建てて、中東の多くの人々を改宗させた時も、山の中に住んでいたため変化を拒否することができた、ということが、重要な点だと思う。

 マロン派はレバノンの人口の20%を占める。そのほか、国民の8%を占めるギリシャ正教、それからイスラム教の中の「密教」にたとえられるドルーズ派イスラム教徒が8%いる。(残りはシーア派とスンニ派の「メジャー系」イスラム教徒)

 レバノンの山岳地帯が、外の世界で渦巻いている歴史の荒波が届かない、歴史の大海の中の「島」のような存在だったことが、これらの少数派が生き残れた原因だ。

●フランスにしてやられた分断政策

 レバノンは、1946年に独立する前のオスマントルコ時代には、隣国シリアの一部として機能していた。これを変えたのは、この地域を支配していたフランスだった。

 フランスは、シリアがオスマントルコから独立する際、マロン派の勢力に働きかけて、レバノンだけを分離独立させ、シリアとレバノンを分断した。古くからヨーロッパ人の仇敵だったアラブ人の力を、一つに集結させぬよう、考えたのである。(同様にイギリスは、自国の支配地域をヨルダンとイスラエルに分割し、長い紛争の火種を作った)

 それ以来レバノンでは、各宗派間の微妙なバランスを保つことが、国家的な課題となった。大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派イスラム教徒、国会議長はシーア派イスラム教徒、外務大臣はギリシャ正教のキリスト教徒、という風に、重要ポストは宗派ごとに固定された。今もその制度は続いている。

 一方、レバノンは、地中海の向こう側のヨーロッパと中東内陸部をつなぐ、交易の場所でもあった。ヨーロッパからみれば、レバノンは自分たちと同じキリスト教徒が住んでいる場所であり、取り引きがしやすかった。(マロン派は中世にローマ教皇の傘下に入った)

 こうした伝統に加え、独立後は規制のない自由な経済政策をとったため、クウェートやサウジアラビアからのオイルダラーが流入し、ベイルートは中東最大の金融都市となった。

●パレスチナ難民の流入が内戦招く

 だが、繁栄は長くは続かなかった。1967年の第3次中東戦争で、多くのパレスチナ人がイスラエル軍によって土地を奪われ、約50万人がレバノンに逃げてきて難民となった。その中にはアラファト議長など、1970年にヨルダンを追い出されたPLOの幹部たちも含まれていた。

 規制のゆるい政策をとっていたレバノン政府は、難民の流入にも寛容だったが、パレスチナ人がレバノン南部の難民キャンプを拠点としてイスラエルを攻撃するようになると、状況が変わった。

 イスラエルは、パレスチナゲリラに対抗するため、レバノンのキリスト教徒の一部を味方につけて武装組織し、難民キャンプを襲わせるよになった。

 それでもレバノン政府は自由放任政策を変えなかったため、イスラエルと鋭く対立していた西隣のシリアが軍事介入し、1975年に内戦が始まった。

 ベイルート市内は、中心部の旧市街を軸に東西に分割され、双方の間を銃弾が飛び交った。間にはさまれていた旧市街は、がれきの山となった。

●PLOの内紛で事態を複雑化

 さらに事態を複雑にしたのが、PLOの内紛だった。1973年の第4次中東戦争でアラブ側は、イスラエルに味方する国には石油を売らない、という方針を打ち出し、オイルショックが起きた。このアラブの作戦は効き目があり、アメリカがPLOに対して、限られた範囲でのパレスチナ国家を認める、という懐柔策を打ち出すに至った。

 アラファト議長はこの方針を受け入れたが、PLOの中には、イスラエルに奪われたすべての土地の返還を目指し、イスラエルの存在を否定する人々も多かった。(イスラエルのすべての土地は、パレスチナ人を追い出したり殺したりして獲得したものだという経緯を思い出せば、こうした考え方も理解できる)

 1980年ごろにかけて、パレスチナ人の間で反アラファトの動きが強まり、PFLPなどの反アラファト派は先鋭化して、レバノン南部からイスラエルへの攻撃を強めた。

 イスラエルはこれに対抗して、1982年に軍隊をレバノン領内に侵攻させ、シリア側が支配する西ベイルートを包囲した。イスラエル軍に包囲される中でPLO内部の対立が深まり、反アラファト派を支持するシリアが、アラファト議長らをベイルートから追い出した。(アラファト氏はチュニジアに移った)

 その直後、イスラエル側は、この機に乗じてベイルートの難民キャンプ2ヵ所を襲撃し、老人や子供を含む数百人を虐殺した。イスラエル軍は直接手を下さず、武器を渡して訓練したレバノン人の武装組織に虐殺させたのだが、このあたりがイスラエルの巧妙なところだ。

 その後、レバノンでの戦争は膠着状態となった。選挙で選ばれたマロン派の大統領が暗殺されたり、イスラエルを支援するアメリカの在ベイルート軍司令部が爆破されたりといった、暗闘が続いた。

 その間にシリアはレバノン政府内における影響力を強めた。キリスト教徒の大統領より、イスラム教徒の首相の方が強い権力を持つように、憲法が改定されたりした。(イスラム教徒が主体のシリアが、レバノンの指導者はイスラム教徒の方がよい、と考えたからだと思われる)

 その後、状況が和平に向けて大きく動いたのが、イスラエルとパレスチナ・アラブ側との間で1993年に結ばれた「オスロ合意」だった。これはいわば、「戦争をやめて金もうけをしよう」という合意だった。

 イスラエルが占領地から撤退する代わりに、アラブ諸国はイスラエルを認知して経済関係を結び、全体が平和になったところで、欧米や日本の企業が進出し、関係者全員の収入が増えてハッピー、というシナリオが描かれた。この動きを受けて始まったのが、ベイルートの復興計画だった。

●再開発プロジェクトを私物化する首相

 再開発が進む旧市街を見ながら、「ここに再び、かつてのように繁栄するベイルートがよみがえるというわけだ」と筆者が言うと、知人は「いや、かつてと同じ繁栄など、よみがえらない。カネはハリリ首相とその周辺のふところに流れ込むだけで、国民のほとんどは豊かになどなれない」と言い放った。

 ハリリ首相は1992年から首相の座についている、レバノンの最高権力者である。(シリアのいうことには逆らえないが) 旧市街の再開発を一手に引き受けているのは、半公営の「都心開発再建会社」で、ハリリ首相とその周辺が経営権を持っている。(ハリリ氏は首相になる前には実業家だった)

 再建会社は、廃虚となった旧市街に土地を所有している地権者のところを回り、土地を売るよう働きかけた。「どうせ廃虚なのだから価値はない」といって安く買い取った。売却を拒否する人々からも強制的に買い取れる法律を作り、旧市街はそっくり再建会社のものになった。

 ハリリ首相が、このプロジェクトを私物化している、という批判は、レバノンの多くの人が心に抱いている。国家的なプロジェクトが、所有者から強制的に土地を買い上げること自体は、悪いことではないが、そのプロジェクトで権力者が利益を上げているとなれば話は別だ。

 レバノンで17年間も続いた戦争は結局のところ、「巨大な地上げ」だったのである。

●「オスロ合意」そのものがバブルだった?

 だが、この地上げ、最後まで成功で終わるとは限らない。むしろ先行きは怪しくなっている。一つは昨年から、オスロ合意のシナリオが崩れてしまったことだ。

 イスラエルでは1996年の選挙で右派のネタニヤフ政権が誕生し、アラブ側に対する敵視を強めている。イスラエルでは経済繁栄より治安維持が優先されるようになり、占領地からの撤退も先延ばしされそうな状態だ。

 イスラエルは先日、レバノン南部から撤退してもよい、という方針を打ち出したが、これがすぐに実際の撤退につながると予測するレバノン人はほとんどいない。今後、イスラエルとシリア・レバノンとの間で、撤退をめぐる交渉が始まるということにすぎない、と思っている人が多い。

 このように和平が進まないため、パレスチナ人による破壊活動は、減るどころか増える傾向にある。治安が良くならないため、再開発でベイルートにビルを作っても、テナントに入る外資系企業がどのくらいあるのか、という懸念がふくらむ。

 新しいビル街は外資系企業の入居を目当てに作られているが、日本や韓国、東南アジアの企業は自国の経済難で、中東への進出を拡大するどころではないし、ヨーロッパの景気も良くなっていない。オスロ合意という、冷戦後のバブルのような構想が崩壊しつつある中で、レバノンの先行きも不安な状態になっている。

 

 

 


外のサイトの関連ページ(英語)

Once the Mideast's 'Paris,' Beirut Pulls a Phoenix

 アメリカの新聞、クリスチャンサイエンス・モニターの、ベイルート復興計画に関する記事。(4月16日付け)





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