ポルポトの死:「共産主義」とは何だったのか1998年4月20日 田中 宇 | |
4月15日、カンボジアの元首相、ポルポト氏が死んだことをニュースで知ったとき、筆者は驚きつつ「やっぱり・・・」と思った。その2週間ほど前、3月30日付の「ニューーヨークタイムス」に、ポルポト氏は殺される可能性がある、と指摘する記事が出ていたからだ。 ポルポト氏が昨年まで率いていたカンボジアの反政府組織「クメールルージュ」は、今年3月には崩壊の危機に瀕していた。 冷戦時代、反ベトナム・反ソ連をかかげるアメリカ、中国、そしてインドシナにおけるアメリカの代理役だったタイにとって、クメールルージュは重要な「仲間」だった。カンボジアの首都、プノンペンには、親ベトナム政権があって、クメールルージュはそれに敵対するかたちでカンボジア西部を支配していた。 だが1990年に冷戦が終わり、アメリカがベトナムと仲直りすることを決めると、クメールルージュは「用済み」になってしまった。 カンボジアでは今年7月、冷戦終結後2回目の総選挙がある。選挙に備え、カンボジア政治の2大勢力であるフンセン派とラナリット派はそれぞれ、クメールルージュから一人でも多くの幹部を自派に引き抜こうとしのぎを削り、それがクメールルージュの崩壊に拍車をかけることになった。 クメールルージュの幹部たちはそれぞれが、私兵の軍隊と自分の割り当て支配地域を持っており、そのまま選挙の得票に結びつくからだった。 ●選挙のカギを握るクメールルージュの残党 1993年の前回総選挙では、王室を中心とするラナリット派が、親ベトナム勢力であるフンセン派に勝ったが、その後フンセン氏がラナリット派を武力で脅し、自分たちを政権内に入れさせて連立政権となった。ラナリット氏が第一首相、フンセン氏が第二首相という、世界でも珍しい2人の首相が存在するようになった。 今年の選挙まであと1年となった昨年になると、両派は選挙を目指した暗闘を始めた。ラナリット氏はクメールルージュに接近し、自派に取り込もうとした。フンセン氏は脅威を覚え、昨年7月、ラナリット氏の外国訪問中にクーデターを起こし、ラナリット派を政権から追い出してしまった。 この暴挙に対し、欧米諸国と国連は「ラナリット氏を帰国させ、選挙に参加させない限り、来年の選挙を国際的に認知しない」とフンセン氏に通告した。国際認知を受け、欧米や日本からの経済援助がほしいフンセン氏はしぶしぶ、ラナリット氏の帰国を認めることにした。 ただし、帰国は選挙に立候補できるぎりぎりの今年3月まで許可しなかった。その間にフンセン氏は、選挙のカギとなるクメールルージュの取り込みに全力をあげた。 クメールルージュは一昨年から、政府側のフンセン派とラナリット派に寝返る幹部が多くなった。組織を挙げて政府側と交渉し、生き残りをはかろう、という意見も出始めた。 こうした動きに、指導者だったポルポト氏は猛反発し、昨年7月、政府との交渉を主張する腹心の一人とその一族郎党を全員、見せしめのために処刑してしまった。これには、組織内から批判の声があがり、ナンバーツーだったタ・モク氏が組織内クーデターを起こした。ポルポト氏は逮捕され、形だけの裁判を経て、軟禁状態に置かれた。 その後、クメールルージュからはさらに多くの転向者が、政府側に寝返るようになった。転向者は政府・フンセン派に対し、クメールルージュ支配地域への攻撃方法を伝授し、今年2月から3月にかけて猛攻撃が行われたため、クメールルージュは崩壊寸前となった。 捕らわれの身であるポルポト氏も、政府軍の攻撃を避けるために移動したクメールルージュ司令部と行動を伴にさせられ、持病が悪化して死去した、とされている。 ●ポルポトに喋られたら困る人々 ポルポト氏は73歳と高齢だった上、心臓が悪かった。だが一方で、ポルポト氏にこれ以上生き長らえてもらっては困る、と思っていた関係者が多いのも確かだ。それは、クメールルージュの「共犯者」だったにもかかわらず、共犯者の烙印を押されずにすんでいる人々である。 その中には、タイの軍隊や中国政府までが含まれている。タイ軍は、クメールルージュが伐採した木材や採掘した宝石類を、安く買っていた。中国は大量の武器をカンボジアで売りさばいていた。 それに加え、カンボジアの政治家のほとんどは、もともとクメールルージュの関係者だった。クメールルージュと敵対していたフンセン氏自身、少年時代にクメールルージュに入り、その後処刑されそうになったので、1970年代にベトナム側に寝返った、という経歴の持ち主だ。 シアヌーク国王も、ポルポト政権時代、飾り物の大統領に任命されていた。知識人が皆殺しにされたポルポト政権時代、政治手腕を発揮できるぐらいの頭を持った人は、クメールルージュに積極的に参加しない限り、殺されてしまっただろう。そう考えると、こうした事態も理解できる。 そんな状況でも、ポルポト氏がジャングルにこもって出てこない限り、秘密が暴露されることもなかった。だが、ポルポト氏をジャングルの中から引っ張り出し、世界のマスコミが注目する中で、自分たちが何をしてきたか喋らせよう、と考える人々がいた。アメリカ政府である。 今、欧米では、大量虐殺やひどい人権侵害など「人類規模の犯罪」を犯した元権力者たちを裁く国際法廷を作る計画が進んでいる。ヒットラーや日本軍幹部を裁いた、かつての国際軍事法廷を、強化して機能させよう、という動きだ。 この国際法廷ができれば、これまでは「内政干渉だ」と拒絶された「人権外交」を進めやすくなる、というメリットが欧米にある。アメリカは、ポルポト氏をこの法廷の被告第1号になってもらおう、と考えた。 そんなことが実現すれば、ポルポト氏がどんな恐ろしい秘密を暴露するか、分かったものではないと、かつての「仲間たち」は考えただろう。4月9日、アメリカがポルポトを捕まえて国際法廷にかける方針が報じられてから1週間もたたないうちに、ポルポト氏は死んでしまった。 自然死にしては、あまりにタイミングが良すぎるのである。 ●「人権問題」のウラにある汚い構図 この国際法廷の被告にリストアップされそうなのはこのほか、イラクのサダムフセイン大統領、旧ユーゴスラビア内戦で虐殺行為をしたというセルビア人指導者カラジッチ氏などが、候補にあがっている。 北朝鮮が崩壊したら金正日氏が狙われるだろうし、キューバのカストロ氏、インドネシアのスハルト大統領も不安だろう。天安門事件やチベットで人権侵害があった中国政府、それからもちろん、日本の「南京大虐殺」「731部隊」「従軍慰安婦」なども、再び取り上げられるかもしれない。 筆者は、こういう法廷を作るなら、イギリス、フランス、スペイン、オランダなどが植民地支配中に行った無数の人権侵害について、まず裁いてほしいと思う。まず自分たちから姿勢をただすべきなのだ。 それから、アメリカの黒人奴隷の歴史や、戦後CIAが手がけたさまざまな「汚い作戦」についても裁くべきだが、そんな展開にならないところが、昨今の「人権」をキーワードにした国際問題のキーポイントである。 ●毛沢東をまねて人殺しに走った? ところで、ポルポト氏はなぜ、当時のカンボジア国民の4分の1にあたる170万人もの人々を、死なせてしまったのだろう。それを考えるには、歴史的な経緯を振り返る必要がある。 ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。 20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。 帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。 1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。 1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。 ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。 ●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質 首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。 都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。 また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。 ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。 ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。 そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。 だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。 ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる) しかも共産主義の理論自体、植民地を支配する側のヨーロッパで生まれたものだ。ポルポト氏に「虐殺の思想」を吹き込んだのはフランス人だった、と考えることもできる。(吹き込んだ奴が悪いのではなく、犯行に及んだ奴が悪い、といえるかもしれないが) ●カンボジアから見えるアメリカの「傷」 クメールルージュが政権の座にあったのは、1975年から79年までの、わずか5年間だった。目茶苦茶な政策によって国内が疲弊し、隣国ベトナムの軍事進攻を招くことになった。クメールルージュはプノンペンを追われて西部のジャングルにこもり、代わって現在まで続く親ベトナム政権が打ち立てられた。 放っておけば、クメールルージュはこのときに壊滅したかもしれないが、歴史はそうならなかった。ベトナム戦争に負けたアメリカが、ベトナムを憎むあまり、カンボジアにできた親ベトナム政権を敵視し、クメールルージュを支援したのである。ソ連と鋭く対立していた中国も、親ソ連だったベトナムに敵対する意味で、クメールルージュを支援した。 そしてクメールルージュは、アメリカの支援を受けやすくするために、「もはや共産主義を信奉していない」と表明したりした。保身のための変わり身の早さは、どこか日本の「全共闘世代」と共通するものがある。 こうした状態は、冷戦が終わる1990年代まで続いた。アメリカ政府の政府要人は、個人的にはクメールルージュの虐殺行為を嫌悪しながら、政府としては虐殺を無視するかたちでテコ入れしていた、とされている。 アメリカのポルポト支援は、ベトナム戦争の敗北という、それまで挫折を知らなかったアメリカ社会が経験した、初めての心理的な傷から生じた、屈折した政策であった。 1980年代に、日本でも「カンボジア難民支援」の運動があった。「難民がかわいそう」と考えて、多くの人々がお金を出した。この背景には、親ベトナム政権から逃れたいと考えたカンボジア人を、タイに受け入れさせて難民キャンプを作り、彼らの存在を使って「ベトナムはひどい」と国際社会に向けてPRしようとした、アメリカの作戦があった、と筆者は考える。 ポルポト氏の死を機に、共産主義運動とは何だったのか、ということについて、もっと考えた方がいいのかもしれない。
外のサイトの関連ページ(英語)
●The Cambodian Genocide Program アメリカのイエール大学が作る、ポルポト政権時代の虐殺についての資料を集めたサイト。The Digital Archive Of Cambodian Holocaust Survivors というサイトもある。
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