北朝鮮から帰国した「妻」たちが背負う重い歴史97年11月21日 | |
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に住んでいる日本人女性15人が、30年以上の時を経て、日本に一時帰国した。11月8日から14日までの一週間という短い期間で、マスコミのカメラに囲まれながらの、あわただしい母国訪問だった。 親族と会ってみると、再会できると思っていた親兄弟が実は何年か前に亡くなっていることを初めて知らされ、ショックを受ける人もいるなど、歴史の流れの重みを感じさせるシーンもあった。だが、全体的にふりかえると、来日中の注目度がやたら高かった反面、彼女たちが北朝鮮でどんな生活をしているのか、北朝鮮はどんな国なのか、といった部分は、ほとんど分からなかった。 そこでこの記事では、彼女たちをはじめとする、日本から北朝鮮に戦後渡った人々の歴史を調べることにより、分からなかった部分について考えてみたい。 ●朝鮮戦争後の方針転換で始まった「帰国運動」 北朝鮮にいる「日本人妻」と呼ばれる人々が日本から北朝鮮に渡ったのは、1958年(昭和33年)から朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が中心になって進めた、北朝鮮への「帰還事業」によるものだ。彼女たちの夫は在日朝鮮人で、祖国に帰って北朝鮮の国家建設に貢献しよう、という希望に燃えていた。 「帰還事業」が始まる5年前の1953年に朝鮮戦争が休戦になった。北朝鮮の国家的な目標は、朝鮮半島を武力で統一することから、経済力で韓国を圧倒することに変わった。(北朝鮮の現状からすると、この計画は大失敗したわけだが) それとともに、北朝鮮が在日朝鮮人に期待する役割も変化した。 朝鮮戦争中は、韓国を支援するアメリカ軍の後方基地として機能していた日本で、撹乱活動や反政府意識を高めるための運動を行い、背後から韓国側の戦力を削ぐことが、在日朝鮮人に期待されていた。当時、在日朝鮮人は朝鮮統一民主戦線(民戦)という組織を作り、日本共産党の傘下に入って、革命運動の最先端を行く人々であった。 ところが、朝鮮戦争の休戦後、民戦は朝鮮総連に組織替えし、日本共産党とは一線を画すとともに、祖国北朝鮮との結びつきを強めた。総連の活動の中心は、祖国の建設に貢献することであり、在日朝鮮人が日本で経済的な成功をおさめ、貯えた資金を祖国に送ることも奨励されるようになった。 朝鮮戦争で多くの国民が犠牲になった北朝鮮では、それ以前の日本による植民地支配の影響もあり、経済基盤を復興させるための技術者や、その他の高学歴の人々が不足していた。そのため金日成主席は1958年、日本からの帰国を奨励するとの声明を発表し、帰還事業が始まった。 実務は日朝の赤十字が行い、帰国は1984年まで続いた。この間に9万3千人が北朝鮮に移住した。そのうち約1800人が、在日朝鮮人の夫とともに渡航した「日本人妻」と呼ばれる人々だった。このほか、子どもや「日本人夫」も含めると、合計で6300人の日本人が、在日朝鮮人の親族として北朝鮮に移住した。 ●その後はぷっつり「「消息不明」 その後、北朝鮮に渡った人々がどのような生活を送ったかについては、急に情報が少なくなってしまう。「2-3年後には日本に里帰りできる」と言い残して北朝鮮に渡った日本人妻たちからも、ほとんど便りが来なかった。日本に残った在日朝鮮人たちの中には、北朝鮮に渡った親族たちの消息を知ろうと北朝鮮に行ったものの、向こうの担当者から「あなたの親族の消息は、こちらでも分からない」などと言われた人もいた。 断片的な情報をつなぎ合わせてみると、消息不明になった人々は、強制収容所に入れられたり、罪人として処刑されてしまった可能性が強い。それが事実とすれば、なぜ、祖国建設に協力してもらおうと歓迎したはずの人々を、そのような目にあわせたのか、という疑問が湧く。 その答えとなりそうなのが、朝鮮戦争後、北朝鮮で起きた権力闘争である。北朝鮮の権力中枢にはいくつかの派閥があり、朝鮮戦争後、戦争によって朝鮮半島を統一できなかった原因分析と、その後の国家運営方針をめぐり、対立が始まった。 金日成氏を中心とし、ソ連や中国に頼らない国造りを目指す「抗日ゲリラ系」のほか、韓国(南朝鮮)で革命を起こそうとしたものの朝鮮戦争後、北に逃れてきた「南朝鮮労働党系」、中国の傘下で国家建設を進めようという「延安派」(延安は中国の革命拠点の地名)、ソ連の傘下に入ろうという「ソ連派」などの派閥があった。 激しい権力闘争の結果、最終的に金日成氏が勝利し、他派の人々の多くが「アメリカのスパイ」などの罪名で処刑されてしまう。この流れの中で、中ソをはじめとする外国と結びついていると目される人々に対する不信の目が強くなり、「帰国同胞」(帰胞=キッポ=)と呼ばれた日本からの帰国組の待遇にも、マイナスになった可能性がある。 また、日本から北朝鮮に渡った人々の多くは、社会主義の考え方に影響された知識人であった。こうした人々は、当時の北朝鮮の一般の人々より、意見をはっきり言う傾向が強かった。こうしたことが、帰胞は要注意、という体制を作っていったとも考えられる。 ●金正日総書記就任の御祝儀作りと来日の関係 反対派を粛清してしまったため、その後の北朝鮮は、自由にものが言えない雰囲気となり、トップダウンの政策が間違っていても、それを修正することができなくなる。こうして、最初は韓国よりも勝っていた北朝鮮の経済は、1980年代になると苦しくなっていった。 北朝鮮政府はニセ札を作ってカンボジアなどで換金しようとしたり(日本でもニセ札疑惑がある)、麻薬取引に手を染めたりと、ダーティーな方法での資金調達も試みたが、人々の暮らしは苦しくなるばかり。 北朝鮮国家が崩壊し、権力の真空地帯ができることは北東アジア全体にとって危機的なことだ、とアメリカなどが考えていることを見て取った北朝鮮政府は、30年以上続けてきた強固な「自主独立」の姿勢を捨てて、アメリカや韓国、日本などからの援助によって国家体制を維持する方策に転換した。 援助要請を掲げて近づいてきた北朝鮮に対し、日本政府がつけた条件の一つが、日本人妻の一時帰国であった。北朝鮮では今年10月に金正日書記が党総書記に就任したが、この時のお祝いに国民に少しはうまいものを食べさせる必要があった。日本からの援助米をもらう代わりに、日本人妻を帰国させる、という交換条件と考えることができる。 北朝鮮政府は本来、国民を外国に行かせると、海外の豊かな生活を見てしまい、祖国に失望することになるため、国民をなるべく出国させない政策を取ってきた。そのため、日本に行く人々は、誰でも良いというわけではない。 選ばれたのは、多くの帰胞が行方不明になる中で、例外的に高い地位と名誉を得ていた15人の女性たちだった。エリートである朝鮮労働党員が少なくとも2人以上含まれていたし、金正日書記からお褒めの言葉をもらった人、夫が病院の幹部や外交官という人などもいた。 また、帰還事業より前、日本の植民地時代に朝鮮に渡った人や、戦前は樺太にいて、その後北朝鮮に移った人も15人の中に含まれていた。北朝鮮政府がこうした人をまぜたのは、戦前の植民地支配に対する補償要求につなげたいとの意志があったから、とみられている。 北朝鮮の中では比較的恵まれた生活をしているとはいえ、親族にだけは打ち明けたいこともあったかも知れない。だが北朝鮮は今、それが許される状況ではない。 ●外交の下手な日本はここでも・・・ 一方、日本政府にとっても、日本人妻の帰国は、在外邦人に対する援助策というより、外交上のカードであった。そもそも、帰国運動で大勢の在日朝鮮人が北朝鮮に渡った際、日本政府は厄介払いができてちょうど良い、と考えていた。在日朝鮮人は、反政府運動の先頭に立っていたからだ。その経緯からすれば、彼らと一緒に北朝鮮に渡った日本人妻もまた、日本政府にとっては、ぜひとも帰国してほしい人ではないはずだ。 日本を経由した韓国へのスパイ潜入、日本人の拉致、マネーロンダリング、麻薬持ち込みなど、北朝鮮による日本での活動は、日本の公安警察が最大の監視対象としているものの一つである。日本政府としては、日本人妻に関する情報を北朝鮮政府から引き出したいところだった。 だが結局、北朝鮮政府が選んだ15人の帰国以外には、得たものは少なかった。この背景には、中国残留孤児の帰国以来、その関係の事業を存在意義の一つにしている厚生省が、日本人妻の帰国事業も手がけたいという意志を持っており、北朝鮮に対して強硬策を取りたかった外務省を押し切ったという経緯がある。両省とも、仕事がなくなると省庁再編で権限を縮小されてしまうから必死である。 外交面からみれば、日本は北朝鮮にしてやられた、といえる。とはいえ、元をたどれば、朝鮮人が日本に住まざるを得なくなったのは、日本の植民地支配が原因であり、在日朝鮮人を今でも差別しているのは日本政府、そして日本社会の方である。 日本のマスコミから、北朝鮮における日本人妻一般の生活実態について尋ねられた北朝鮮の外交官は「我が国の公民として、胸を張って生きている」と述べた。この言葉の言外には「在日朝鮮人に対して、何十年住んでも公民権を与えていない日本政府とは違う」という意味がある。この手の言葉を聞くと、植民地時代の補償問題を持ち出されるのではないかと、日本政府も及び腰になってしまうのであろう。
なお、筆者は在日朝鮮人の歴史をルポルタージュによって描いた「マンガンぱらだいす」という本を1995年に書きました。在日朝鮮人の歴史や帰国同胞たちのその後の状況は、この時に関西の在日朝鮮人一世、二世たちから聞いたものです。
関連サイト
にらけらハウス
北朝鮮のゆくえ
現代コリアオンライン
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