失われた規範を見つけられない「砂の社会」ロシア97年11月11日 | |
ソ連崩壊後のロシアを表す言葉として「砂の社会」というのがある。ロシアの社会は、砂のようにまとまりがない性質を持っており、周りを板などで囲えば(つまり、社会主義やロシア帝国主義といった「偉大な規範」があれば)、硬い一枚岩のように見えるが、囲いが外れてしまうと、元のバラバラの砂になってしまう、ということを表している。 ロシアが「砂の社会」だというのは、ヨーロッパが理論の積み重ねでできている「石の社会」、日本が家族や地域の粘りっこい人間関係でできている「粘土の社会」だ、ということと合わせ、3つで一組になっている言葉。ロシア分析で名高い、青山学院大学の袴田茂樹教授が生んだロジックである。 ソ連邦の崩壊から6年、「社会主義」という規範が失われ、社会の囲いがはずれた後のロシアは、まさに砂のようにバラバラで、国家としての機能が麻痺したままになっている。新しい規範を確立しようとする試みもあるが、まだ確実なものはない。 ●まずは、社会主義時代の総括から そんな中、さる11月7日は、ロシア10月革命の80周年記念日であった。1917年11月7日、革命家集団ボルシェビキは当時のロシアの首都、サンクトペテルブルグの王宮を占拠し、皇帝側から政権を奪った。ロシアが社会主義の道を歩み始めたのが80年前のこの日であり、ロシアでは11月7日は休日になっている。 この日の名前は社会主義時代には、「革命記念日」であった。エリツィン大統領は昨年、11月7日の休日の名前を、「同意と和解の日」に変えた。エリツィン派と共産党との間の和解を目指す日、社会主義崩壊後、バラバラになった政治派閥を再び一つにまとめることを目指す記念日として位置づけようとしたのである。だが、共産党は休日の名前を変えることにすら反対し、和解どころではない政情が続いている。 今年、ロシアの政治家や言論人たちは、もっと根本的なところから考え始めねばならない、ということに気づいたようで、11月7日の前から、社会主義はロシアにとって良かったのか、悪かったのか、というテーマについて、マスコミなどの場で議論が続いている。 共産党系の人々の考え方はもちろん、社会主義はロシアと世界にとってプラスだった、というものだ。社会主義になったからこそ、アメリカに対抗しうる世界で唯一の存在になれた。ヨーロッパが高福祉社会になったのも、ロシアで生まれた社会主義の制度を一部取り入れたからであり、ソ連邦ができなければ、ヨーロッパの貧富の格差はもっと大きかったはずだ・・・。などというのが主張の骨子である。 一方、改革派は、スターリン時代に、ロシアで約2000万人が銃殺されたり、強制収容所で死んだりしたこと、言論の自由もなかったことなどに力点を置き、社会主義がいかにひどいものだったかを強調している。また、社会主義の完全な中央集権制度が、一般の人々の思考力を奪ってしまい、無気力な社会を作り出した、という批判もある。 ●欧州派、民族派、社会主義派のせめぎあい ロシアではソ連崩壊後、新たな規範作り、「社会の囲い」作りの方向として、3種類が模索されている。一つは、ヨーロッパ型の社会を作ろうとする改革派。ゴルバチョフがそうだったし、エリツィンも元々はこの系統だ。 もう一つは、社会主義革命以前のロシアの伝統を復活させ、それを規範としようとする民族派。最近のエリツィンは、この方向に傾いている。そして最後は、共産党に代表される、社会主義を復活させようとする動きである。11月7日の旧革命記念日をめぐる議論は、改革派と社会主義復古派との間の論争というわけだ。 だが、三つの方向性とも、無理がある。ヨーロッパ型の社会を作ろうとすることは、「砂の社会」を「レンガの社会」に変えようとするもので、難しい。たとえば、レンガ型社会の象徴ともいうべきドイツでは、ナチスが崩壊した後、ナチスの残した強制収容所を博物館として残し、歴史を忘れない姿勢を強く打ち出している。 だがロシアでは、スターリン時代の強制収容所を博物館として残そうとする動きが最近あるものの、それは小さな動きであり、ほとんどの人々は無関心だ。強制収容所に入れられていた知識人の多くも、収容所を残そうとする運動には参加していない。 実は「社会主義は良かったのか、悪かったのか」という議論に対しても、多くの人は無関心だ。モスクワの若者は、ビジネスで一旗挙げることに熱中しており、6年前までの社会主義時代は、はるか遠い昔のことのようである。 11月7日には共産党が各地で社会主義復活を目指す集会を開き、モスクワでは1万人の共産党支持者が集まった。1万人といえばかなりの人数だが、欧米の通信社電によると、定年を過ぎた人々が目立っていた。古き良き社会主義時代を懐かしみ、暮らしにくい社会を作ったエリツィン政権を批判する、という姿勢が主力だったようだ。 ●モンゴル帝国による支配が起源か? 一方、ロシア民族主義の動きは、シベリア開発などで活躍した騎馬集団であるコサックが復活したり、ロシア正教会が人々の信仰を再び集めるようになってきていることを背景としている。ソ連崩壊後、生きる方向性を失った人々が求めたのが、社会主義の74年間は事実上禁止されていた宗教や民族的な慣習だった。 エリツィン政権も、この動きを利用しようとしている。たとえば今年は、モスクワ市が生まれてから850周年に当たるとして、9月に大規模な記念祭が実施された。社会主義革命よりも古い時代の「偉大なロシア」に、国家のアイデンティティを求めようとする動きといえる。 とはいえ、この850周年というのは、モスクワの存在が歴史書に登場したのが850年前というだけで、それほど重要な節目だとは思えない。日本が戦時中に「紀元2600年」を祝ったのと似た、いかがわしさがある。しかも、モスクワが町として設立されて間もない13世紀から15世紀までの約200年間、モスクワ周辺はモンゴル帝国(キプチャク汗国)に支配されており、「偉大な」存在だったとはいいにくい部分がある。(モンゴルによるロシア支配を「タタールのくびき」と呼ぶ) そもそも、ロシアが「砂の社会」になった源流を、中世のモンゴル帝国による支配に求める考え方もある。当時、世界最強の騎馬軍団だったモンゴルは、ロシアにとっては異民族であり、想像力の範囲を超えた絶対的な存在であった。そうした支配が長く続いた結果、ロシアは強い支配者がいないと機能しないようになり、皇帝(ツァーリ)やスターリンといった絶対的な支配者が生み出された、という仮説である。 起源はどうあれ、ロシアの国家的なアイデンティティ危機が、社会のかなり深いところに根差していることは間違いない。それだけ、ロシアが立ち直るのは大変だということが予測されるのである。
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